2024年 03月 23日
晩白柚のお引越し 栗山由利
育てるということが苦手である。もちろん、えらそうに言えることではない。校区の文化祭でもらったアロエも座敷の縁側で枯れてしまった。新居に入居するときに携えるというオモトも、懇意にしていた花屋さんが立派なものを準備してくれたにも関わらず枯らしてしまった。その鉢は今は傘立てになっている。こんなに育てることが苦手な私が、厚かましくも二人の子どもをよく育てたなと、この歳になって恐れおののいている。
そんな私たちが去年、福岡を去る孫から預かったものがあった。それは高さが50センチにも満たない晩白柚の鉢植えだった。数年前に食べた晩白柚の種を庭隅にほおっていたところ、芽を出してたくましく育ち、ちいさな鉢に移されてしっかりと育っていた。
猫の額の半分もないわが家の庭ではあるが「ナイナイ、お願いします」と言われ、枯らさないようにと、夫とその様子にピリピリとしながら水やりをしていた。ところが去年の夏、下の方の葉はしっかりしているのだが上に行くほどに萎れてきて、細い枝も枯れ細ってきた。これはもしかすると枝の先まで補給するほどの水分をポットの中に保てないのかなと思い、剪定をお願いしている植木屋さんに尋ねてみたところ、やはり鉢が小さすぎたようで、それなら地植えしてもらおうとお願いしたら、それよりも柑橘類は大きい鉢で育てた方がいいというアドバイスをもらった。
そしてネットで調べると植え替えは3月から4月がベストということだったので、径が50センチくらいで容量が60リットルの鉢と用土を揃え、昨日わが家の晩白柚さんは径20センチほどのお家から一挙、広いお家へと引っ越したのであった。
いやー、プレッシャーは半端ない。なんせ実生の晩白柚である。ここまで育つのに何年かかったのか。孫はまだ7歳。いくつのときに食べた晩白柚だったのか。枯らすわけにはいかない。
長男から昔「世の中、𠮟咤激励って言うけど母さんには叱咤しかなかったもんなあ」と言われたことを思い出しながら、晩白柚さんには叱咤プラス激励することも忘れずに育てようと思っている。
種だつたむかしなんぞを思ひだす暇なんかないのびる若葉は
2024年 03月 22日
アクアリウムのアオウミガメ 大野英子
先日の夕方散歩。街の中ではそこまで感じなかったけれど、博多埠頭まで来ると風が強い。中央ふ頭の先端まで行くには身の危険を感じ、博多埠頭にあるベイサイドプレイスに行ってみることにしました。
もう30年以上前でしょうか、出来た当初はウォーターフロントの複合施設として、2階にはお洒落なレストラン街があり話題にもなりましたが、いつのまにかほとんどの店は消えました。
2階は貸オフィス、一階のターミナルにはパン屋やモスは入っているけれど、お土産屋さん、うどんスタンド、占いの店、ターミナルにありがちな怪しい民芸品が並ぶ店があり、全体に暗めで、いわゆるオワコン(この言葉もオワコン!?)の様相で、あまり近づく気にもなりませんでした。
入り口近くにある円形の2階まで吹き抜けのアクアリウムは昔のままにありますが、やはり暗い。
カラフルな魚たちが泳いでいますがあまり映えません。
それでも天井辺りは、ライトが当たって小さな回遊魚がキラキラ光って美しい。たまに中型の鮫や小振りなエイがふらりと姿を現します。
エイを見ると思い出すのが、幼い頃の長崎の水族館。上から水槽の中が覗けるようになっていて、その中でも巨大なエイがゆうゆうと泳ぐ姿が目に焼き付いています。その景色から水族館好きになったのかもしれません。いろんなところに行ったなぁ。
そんなことを懐かしみながら、中2階の踊り場からしばらく眺めて、眺め疲れて1階に下りて水槽の前に坐ろうとしたとき、ぬっと顔を出したのが1m以上はあるアオウミガメ。
いかつい顔をしているが、なんとなくユーモラス。柔らかそうな首のあたりを小魚から突っつかれるとビクッと首を震わせるしぐさが愛らしい。
その場を立ち去ることなくこちらを覗いています。水槽自体に目を向ける人が少ないので、じっと見られて嬉しいのかもしれない。
背も腹の甲羅も艶光りして、ほれぼれとします。50㎝くらいありそうな前脚というより水搔きは、それはそれは立派で、本気を出せば相当スピードが出そう。
もしかしたら開館当時から居る、主かもしれない。
本来だったら、南西諸島あたりをゆうゆうと泳いでいるかもしれないと思うと、気の毒になってしまいます。
それでも、大海原にこころを遊ばせたひとときでした。
外に出るともう、すっかり夕暮れ。むかし博多パラダイスと呼ばれたポートタワーが地味に光を放っていました。
鱏になりイルカになりて亀になる港を照らすスポットライト
うみがめにひつたりすがり深海を訪ねて鯨のこゑを聴きたし
2024年 03月 21日
時知らずの桜 鈴木千登世
昨日は大荒れの一日だった。霰のような大粒の雪が降ったかと思うと晴れ間がのぞいて明るく陽が差してくる、ということが短い時間で繰り返された。外出する用があって仕方なく出かけたものの、台風並みの強い風が体温を一気に奪っていった。ここに住むようになって30年が経つけれど、こんな天候は初めてで本当に驚いた。
🌸 🌸 🌸
今年はいつもの年より桜の開花が早いと言われている。昨日は荒れ模様で寒かったけれど、それまでは暖かい日が続いて春が間近に感じられていた。桜もそろそろかなと思っていたら、谷の向こうがぽうっと霞んで見えた。誘われるように谷を上って行くと……さくら。
木の頂きあたりを霞ませて花が咲いている。この日は3月17日。他の木にはまだ小さな花芽が出てきたくらいで開花にはまだ遠そうだった。近づくと小さな白い花が朝の冷たい空気の中でひらいていた。
この桜に見覚えのある方もおられるかもしれない。実は去年の11月23日のブログで冬の桜として紹介したあの桜なのだ。冬に向けて咲く花が気になって、それからもときどき訪ねていた。厳しい寒さの中でも咲き続ける姿に驚きながら、見るたびに心がふるえた。
11月22日からの桜の花の様子をご覧いただけたらと思います。
11月22日。谷間に咲いていたのを見つけた日。
12月8日。霜が降りて寒い朝の桜。
12月20日。八分咲きくらい。
木下には花びらが散っていた。
1月2日。新年にも花が残っていた。
寒い時期だからだろうか、ゆうに1か月を超えて咲いていた。
ウォーキングのコースからは少し外れたところなので、そろそろ咲き収めてゆっくり眠ることだろうと、それからしばらく訪れなかった。
そして、3月17日。
こんなに咲いて大丈夫だろうか。ふしぎなこの桜をもうしばらく見守りたいと思う。
時知らず咲く花あはき夢に似て訪ふ人もなき谷に咲きたり
2024年 03月 20日
彼岸 有川知津子
今日は、春分の日。
春分の日は、お彼岸の中日でもある。お彼岸は、春ばかりでなく秋にもある。
「彼岸」の季は春。
たんに「彼岸」と言った場合は春のことだから、秋の彼岸を言うときには、「秋の彼岸」などのように秋を示す何かをともに用いる必要がある。
連歌に加えてもらっていると、自然とそんなことも知るようになる。
ところで、
なぜ、「彼岸」の季は春に定まったのだろうか。これを書きながら湧いた疑問である。
まつすぐにてのひら目指し来たりけり彼岸太郎の朝のひかりは
2024年 03月 19日
天鼓 藤野早苗
今回の演目「天鼓」は世阿弥の作(と言われています)。前半と後半で、シテ(主人公)の姿(面)が変わる複式夢幻能の体裁の一曲です。以下、あらすじを貼っておきます。
A 後漢の頃、天鼓という名の少年がいた。この子が胎内に宿る時、母である王母は、天から降ってきた鼓が胎に息づく夢を見たという。それに因んで生まれた子は天鼓と名付けられ、さらに不思議なことには天鼓誕生後、実際に天から鼓が降ってきたのだという。少年天鼓はこの楽器天鼓とともに成長し、少年の打つ鼓の音はえもいわれぬ天界の楽音がすると、その名声は皇帝の耳にも届くこととなった。そのため、皇帝の勅使が天鼓の父母である王伯・王母の元を訪れ、鼓を差し出すように勅命を下す。それを諾なわない少年天鼓は鼓を抱えて逃げ出すが、あえなく捉えられ、呂水(河)に沈められ落命。鼓は奪われ、宮廷に運ばれるも、誰が打っても全く音を発しない。
B 業を煮やした皇帝は王伯に勅使を送り、宮廷で鼓を打つよう命じた。王伯は死を覚悟で上洛し、皇帝の前でわが子天鼓への思いを胸に鼓を打つ。するとあろうことか、鼓はこの世のものとは思えない妙音を鳴り響かせ、その音色に心うちふるわせた皇帝は王伯に褒美を与えて帰し、少年天鼓の冥福を祈るために、呂水のほとりで音楽による法要「管弦講」を催した。
C 管弦講当日、皇帝が呂水に向かうと少年天鼓の霊が現れ、鼓を打ち、管弦の音に乗って舞い踊る。楽しげに舞う少年天鼓の霊は、夜明けとともに消えてゆくのであった。
以上が「天鼓」のあらすじです。字面で読むと理不尽で悲しい物語です。天からの授かり子を権力者の横暴で奪われてしまうのですから、憤懣やる方ないストーリーです。でも、これが能という舞台劇になると全く違った印象の物語になるのだから不思議です。
まず、構成について確認しておきましょう。あらすじに書いたAの部分、ここは最初に舞台に登場するワキ方(生きている人間で識者。直面で現れこの物語では勅使)が前日譚として観客に語ります。その上で、物語前半Bに舞台が繋がり、橋懸りから天鼓の父王伯登場。こちらが前シテ。面は格式高い子牛尉。翁面の一首です。この面から、王伯の品高い為人が察せられます。そしてこの面、角度によって悲しみ、苦しみ、喜びなどの表情が非常にこまやかに表現できるのでした。王伯の打った鼓が鮮やかな妙音を響かせたことで、呂水に沈んだ少年天鼓の管弦講をしようと思い立った皇帝、その当日のさまが語られているのがC。舞台は後半、後シテの登場です。面は慈童。幼さの残る少年の面です。装束も前シテの時とはうって変わって華やかなものになっています。前シテも後シテももちろん中の人は今村嘉太郎さん。考えてみれば、能楽師さんは一つの舞台で二つのキャラクターを演じ分けねばならないわけで、大抵の場合、その振り幅はかなり大きい。ギャップ(落差)があるほどドラマティックというのは古今東西論を俟たない演劇上のセオリーですよね。
Aの部分は名ワキ方、宝生流能楽師御厨誠吾さんが見事に演じられました。抜群の安定感。物語を回すのにはなくてはならない存在です。Bの王伯、橋懸りからの登場シーンには異様な緊張感がありました。静かに時が流れます。舞台中央に置かれた鼓にゆっくり向かう王伯。ためらいながら打った鼓が鳴った瞬間のカタストロフィーに一瞬で緊張の糸が切れました。子牛尉の顎が上がり天を仰ぐその晴れやかさ。鳴り響いた鼓の音は、少年天鼓から父王伯への応えだったのでしょう。そして場面はCへ。管弦講が営まれる呂水のほとりに現れた少年天鼓の霊。無惨な死を遂げたとはいえ、その魂は清らかで身体を失った今もなお、この世に生きることの楽しさ、美しさを伝えるそのさまに涙を誘われました。無垢な魂、その形を慈童の面をつけた後シテに見た思いです。
能の演目によっては小書(こがき)というものが添えられていることがあります。これは能楽における特殊演出のこと。今回の「天鼓」には「弄鼓之舞」とあり、遊舞の際の囃子方に、通常は使用されない太鼓が使用され、その歌舞性を高めていることがわかります。舞台方丈ところ狭しと舞い踊る天鼓の霊。その魂の躍動のさまそのままに打ち鳴らされる鼓の音色。その美しい混沌にこころを預ける時間の豊かさに痺れました。この時間がいつまでも続きますように、そう思っていると、いつしか朝。管弦講の夜は明けて、天鼓の霊も彼此の境の橋懸りに静かに消えて行ったのでした。
この「天鼓」の作者は世阿弥と言われていますが詳細は不明です。しかし、物語が生まれたのは世阿弥の時代、すなわち戦乱の世です。幼い命が理不尽に失われる、その悲しみに遭遇せざるを得なかった親たちもさぞかし多かったことでしょう。この物語の根底にはそうした無垢な魂への祈り、鎮魂があるのでしょう。後シテの華やかな舞を堪能しながらいつの間にか涙が流れていたのはその祈りが一観衆である私にまで届いたためだったのではないかと思います。芸能って素晴らしい。余白の多いお能の、その余白にこころ遊ばせた午後でした。
深呼吸してさあ一歩踏み出さん春の鼓がどこかで響く