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      アクロス福岡セミナー室1にて 9月11日撮影、


毎月コスモス福岡支部では支部歌会を第二日曜日午後1時から、アクロス福岡2階セミナー室で開催しています。
9月は11日、先週の日曜日がその日でした。

出席者17名、(出詠者は18名)、ひとり一首出詠し、一首あたり3名の会員の批評、2名のコスモス選者・藤野早苗、大野英子両氏の批評を享けながら、すべての歌を批評します。
ときには、作者に意図を尋ねないと分からない歌もあり、そういう歌の時は批評も盛り上がります。

この会は見学の方も大歓迎です。
「短歌に興味があるけど、勉強の仕方が分からない」、「短歌を通じて友人がほしい」そんな方はぜひ一度お遊びに来てください。

10月はお休み、次の歌会は11月13日(日)13:00からセミナー室2です。
「いつもは歌会に出ないけど、たまには見に行こうかな」という「コスモス」の会員様もお待ちしています。  


できたての歌はすぐさま消えるからいそぎメモする炊事のあひに



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# by minaminouozafk | 2016-09-18 07:00 | 歌会・大会覚書 | Comments(4)

 知らなかった!明治のサイコロキャラメルが今年の1月で生産が打ち切られていたということを‥‥。


 私が小学生の頃、遠足には、確か50円か100円で買えるだけのお菓子を持っていくという決まりだった。チョコレートもカルミンもそして、キャラメルにバナナもと欲張って、小さいなりにいろいろと考えておやつを選んでいた。森永のミルクキャラメルやおまけ付きのグリコも魅力ではあったが、それを買うと予算オーバーしてしまう。そんな時、サイコロキャラメルはキャラメルを持っていきたい気持ちと金額の問題を解決してくれるすぐれものであった。

 赤と白の2種類の箱で、少し大きめのミルクキャラメルが二つ、そしてパッケージはサイコロになっていて[]のところは明治製菓の旧社章だった。子供の口にはちょっと大きくて、頬張る感じがして一粒でもとても満足感があった。

 

 無くなったと言われれば、よけいに食べたくなる。調べていたら生産子会社のある北海道限定で6月から復活販売が始まったそうだ。少し安心した。

 それにしても北海道テレビ(HTB)のバラエティー番組「水曜どうでしょう」ゆかりの地の北海道でサイコロキャラメルが生き残ったということに、思わずにんまりしてしまったのは私だけではないと思う。 次から北海道土産をサイコロキャラメルにしよう。懐かしく思ってくれるかもしれない。



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〈陶器の鈴サイコロ。振れば澄んだ良い音がします(クリクリ作)と蘇州で買った招福の飾り〉


       またひとつ思ひ出となり大粒のサイコロキャラメルほほばりしこと 由利


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# by minaminouozafk | 2016-09-17 10:17 | Comments(5)

このたび就寝時にマウスピースのお世話になる事になりました。

病院は大嫌いですが、歯医者さんだけは別。
他に取り柄が無いから、虫歯が無い事だけは守り通したくて、以前から3ヶ月に1度の定期検診はせっせと続けています。

おかげで虫歯無し、歯周病ポケットも現状維持でOK。ただ、口を閉じると上下の歯が重なるのは奥歯のみ、という噛み合わせの悪さ。下の歯は完全に上の歯の裏にINされるワタシ。
検診の事あるごとに、奥歯に力を入れないよう、寝ているときに歯軋りをしないよう、注意されていました。
寝ているときの事を言われてもねぇ・・・。

数ヶ月前から不定期的に左奥歯の歯茎が、噛むのさえ辛いほど腫れては引く事を繰り返し、遂に奥歯の負担を軽減するためマウスピース登場となりました。

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 変なものアップしてゴメンナサイ。これが、現物です。さすがに歯型を取るのは辛かった~
 でも、廻りから聞こえて来る虫歯治療中の様子に比べるとなんのその。

使用している方達に聞くと、眠れない、面倒だと放棄している方が大半。不安だったけれど、使ってみるとそう違和感はなく眠れ、普段でもマウスピースがストッパーになってくれて、INされていた下の歯が日の目を見る事が出来ています。
さすがに人前では使えませんが(上手く話せません)家では日中も使い、電話に出てから慌てて外したり、外出中は逆に口の中が物足りないような今日この頃。

あちこちに不調が出る年代。せめて食欲だけは健やかに保ちたいものです。

       はつ秋の広きあをぞら罣礙なきわが口中に食欲さそふ 英子
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# by minaminouozafk | 2016-09-16 06:56 | Comments(6)

馬が好きである。
20代後半、近くに乗馬クラブができたのを機に乗り始めた。
馬の体高はほぼ140センチ。その背に跨って見る世界は思いの外、開けている。

当時の私は公立高校の教員。担任していたクラスは何かと問題が多く、日々疲れきっていたが、週末は馬に会えると思うと元気が出た。


乗馬のスタイルは幾つかあるが、私ばブリティッシュライディング。中でもショウジャンピングと呼ばれる障がい飛越競技が好きだった。トリプルのメーター障がいを跳ぶこともある。それに必要なのは、もちろん技術。そして勇気。乗り手が怖がっていると馬は混乱する。重心を尾骶骨に真っ直ぐ下ろすイメージで跨り、脚を締め、馬の律動に合わせながら、推進力で走る。乗り手と馬、両者に信頼が無ければ大事故にも繋がる。こいつになら任せられる、そう心を決めて乗れば、馬はきちんと答えてくれた。

馬に教えられたことは多い。言葉でごまかされない分、馬は人間の本質を見抜く。乗り手が怖がって手綱を引きすぎると馬銜を外そうと暴れるし、鞭を当てすぎると必要な指示が伝わらなくなる。馬に暴走されたり、立ち上がられたり、自分の身に危険を感じて初めて、自らの不徳に思い至ったわけである。

ああ、そうか。生徒たちはこんな気持ちだったんだ。「もっと信じて、やる前から失敗するなんて思わないで。」馬に乗り始めてようやく生徒の声を聞けるようになった。相変わらずダメ教員だったけど、仕事がそんなに嫌でもなくなった。

結婚、育児で遠ざかっていた乗馬を2年前から再開した。もう障がいは跳ばない。肩の力を抜いてただ馬の背に揺られている。


どこまでがわたしでどこから馬ならむケンタウロスとなり歩みたし
                           藤野早苗

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          ハーバーカピタン号と。
(なんか馬に似てる、この頃の私

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# by minaminouozafk | 2016-09-15 10:54 | Comments(5)

突然、窓の外が明るくなった。まるでUFOが降りてきたような明るさだ。
ベランダに出てみる。なんて光なんだろう。
夕陽の氾濫。雨雲の薄いところを破ってこちら側に流れ込んでいるのだ。
ほうっと溜息がもれる。――しばらくしてからだ、写真を撮ることを思いついたのは。

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眼を閉じて開くたびに翳りが深くなってゆく。もう少し見ていたい、と思わせるほどの果敢なさだ。
けれど、あまり時間がない。室内にもどろうとして振り返るとしぜんと反対側の空が見え、
思いがけないものが目に入ってきた。

虹だった。
夕陽ばかり見て背後の虹にちっとも気づかないでいたのだ。

アインシュタインは「私が見ていなくても、月はそこにある」と言った。虹もそこにあった。
あと少し振り返るタイミングが遅かったら、そこにある虹に気づかないままだったかもしれない。
そう思うと奇蹟的な邂逅のように思えて無闇にうれしくなる。
けれどもまた、
気づかないままに遣り過ごしてしまう虹が、この先どれほどあるのだろうかとも思ったのだった。

  屈折のうつくしさかな玉かぎるゆふぞらに立つ虹のいしぶみ

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夕虹。9月4日(日)の撮影。ほとんど消えかかっています。
二重虹ですが分かりにくいですね。どうか心眼で。

土曜日(9月10日)の由利さんが、朝の虹をあげています。
虹の内側と外側の空気の感じの違いがよく分かる写真です。



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# by minaminouozafk | 2016-09-14 08:22 | Comments(6)

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わが家には熱烈な奧村晃作ファンがいる。それは最新歌集『ビビッと動く』を抱きしめて寝ている猫さま…ではなく、うちの娘18歳である。

小高賢のアンソロジー『現代の歌人140』を読んだ娘の一押しが、奧村晃作なのであった。

娘は基本、短歌に興味がない。短歌だから読むのではなく、それが何であっても面白ければ読む。短歌作品の批評軸しか持たない私には分からない、奧村作品の鑑賞の仕方があるのかもしれない。門外漢の言辞は時に本質を射抜くものだ。

・ 味噌を食い蟹の体の肉を食い十本の脚の筋肉を食う
・両手伸べTの字に立ち赤き衣の夢二の女は手に扇子持つ
・人物と山、湖の絵が多いスイスの国民画家のホドラー
・吊橋のあんまり高い橋だから前見て橋の真ん中歩く
・必敗の囲碁であったが相方がゆるい手打って勝ちが転がる
・〈お茶ノ水橋口〉を出て地下鉄の「お茶ノ水」まで歩いて二分
・俊敏の佐藤慶子の鳥のごとビビッと動く脳を思えり

集中から引いた。
日本人は察することが上手い民族だ。実際には書かれていないことを空気感を読んで了解する。短歌を読むとき、そして詠む場合もそうだ。どれだけ言わずに伝えられるか、31音の短詩がどんな物語になるのか、短歌の醍醐味はここにあると私たちは考えがちだ。そういう意識で奧村作品に向かうと、かなり残念な感想を抱くことになる。

けれど以前、行間を読めと言われて「白い」と答えた娘が奧村作品を読んだ場合、上記作品は秀歌となるのである。奧村作品においては言葉と意味つまり表現の対象は1対1の合理的な対応をしている。重層性がない、それゆえの余韻がないと言われればそれまでだか、代わりに底抜けの開放感があり、決して他の歌人とかぶらない独自の表現は飄々とした魅力にあふれている。しかも、奧村氏は受けをねらっているわけではない。極めて真面目に日々作歌に邁進しているのである。この自らを恃む心の強さが従来の短歌観から奧村短歌を自在に解き放っている。

奧村短歌の後継はなかなか難しい。これだけ無欲無心無邪気に歌に向かえる人間はいない。その意味でも、奧村晃作はやはり天才なのである。


一念は岩をも通す滴てきと只事を詠む奧村短歌 藤野早苗


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# by minaminouozafk | 2016-09-13 02:30 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(4)

百留ななみ

青毬の見しもの


近くの幼稚園の裏庭に小さな栗の木を見つけた。桃、栗三年と言うが、今年はじめてだろうか。

梢に青毬を2つ付けている。それは、栗の木ロボットの目玉のようで愛らしい。


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人間はあちこち移動する。それを旅というのか。今は飛行機でだれでも地球の裏側までもオリンピック観戦に行ける。宇宙までもロケットで。同じ生き物でありながら、植物は移動しない、いや動けない。動かない植物の視点はどっしりして揺るぎがないように思う。たぶん青毬も小さい時からずっと初夏の空、猛暑の空をながめている。屋根なんかないから満天の夏の星も三日月も知っている。もしかしてミサイルも。


以前、栗の産地で2年ほど暮らしたことがある。3月は葉をきっぱりと落とし裸木となった栗の木の芽生え。黄緑色の小さな芽がきらきらしている。独特の匂いの花の咲く6月。梅雨の語源は栗花落(ついり)と言う。その後、雌花は小さな緑の金平糖のような実となる。ほんとうに可愛い。それが、徐々に大きくなって青毬に。内側から満ち満ちてきたら、重さに耐え切れずその実を落とす。そして、秋風が木枯らしに変わるころにはすっぱり葉を落とし再び裸木となる。


ドラマチックで凛々しい栗の木。冬の明るい栗の林は気持ちが良い。雨の頃の枝垂れた白花。いがいがの中の艶々のずっしり重い実。縄文時代から食べられ、万葉集にも歌われている。


ぼちぼち八百屋さんの店先にも栗が並び始めた。渋皮煮、栗ごはん、モンブランも大好きだが、あの厚い皮を剥くことを思うとついつい買うのをためらってしまう。沢山いただいた時は頑張ってナイフで剥くのだが、渋皮を傷付けずに剥くのは、気力と手力が要る。だから、なんとか栗ごはんにはなるが、渋皮煮はなかなか難しい。

この秋、ゆったりとした気持ちで渋皮煮をと思うのだが・・・


栗の木の梢の二つの青毬が見てゐる核の弾頭ミサイル

百留ななみ


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# by minaminouozafk | 2016-09-12 06:17 | Comments(5)