<   2018年 04月 ( 30 )   > この月の画像一覧


明日から5月。

眩しい黄緑色がみずみずしい。

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寺山修司が逝って35年。198354日、47歳でその生涯を閉じた。

デビュー作は 『われに5月を』  ほぼ10代の作品で、短歌・俳句・散文詩・・・とさまざまなジャンル。

わが通る果樹園の小舎はいつも暗く父と呼びたき番人が棲む 「番人」

ああ五月暗き馬小舎にて読みしジャンコクトオも肥料の匂ひ  「番人」

甘くむせ返るような若さ・・・自分が短歌を作るなど想像してなかった頃。物語めく西洋の甘美さに惹きつけられた。どちらかというと散文詩のほうを繰り返し読んだ。


大好きな葉桜の季節には思い出し胸が苦しくなる。


「二十才 僕は五月に誕生した」 五月の詩・序詞。

5月に生まれ5月に死んだ寺山修司。

ときどき訪れる下関の絵本屋さん〈子供の広場〉。昨夏のブログで紹介したら、早苗さんから大人の本も探しに行っていたと嬉しいコメントをいただいた。じつは私もそう。


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絵本を選び終わり、ほかに何か面白い本ないかしら・・・と店内を所在なくながめていると、さりげなく店主の横山さんから

「寺山修司の詩集ってよりも絵本かな、すてきな一冊ですよ。」

とお薦めされた。


20cmほどの正方形、表紙・裏表紙が厚紙のドイツ装の小さな一冊。

タイトルは 『五月よ 僕の少年よ さようなら』

猫を抱いた少女の絵は宇野亞喜良。

50頁ほどに鏤められた寺山修司と宇野亞喜良の宇宙。


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買うしかない。


宇野亞喜良さんは若くして寺山修司と出会い、舞台美術、ポスター、芸術監督として活躍してこられたと後書きで目黒実氏が書かれている。

目黒実氏はちょっと前まで九大のこども芸術学科の客員教授をされていた。

そしてこの小さな一冊の発行所の住所を何気なく見ると、福岡市南区平和。



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店主の横山眞佐子さんは角野栄子さんなどとも親しく、市内の小学校で選書会も息子たちの頃からされている。40年も前に下関に絵本の専門店をつくられたパワー、あこがれの女性だ。

しばらく雑談していると彼女のお父様が熱心に短歌をされていた話に。今でも実家にたくさんの短歌の本があって・・・と素敵な笑顔で。帰って調べてみると山口県歌人協会の設立にもかかわられ、理事、選者もされていました。


なんだか不思議なご縁の一日、たいせつに絵本をかかえて帰りました。


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最初の作品が写真の少年時代。

長靴をはいた猫と寺山修司の出会い。

またまた澁澤龍彦ウィルスにシンクロしていまいました。


明日から五月。


もっとアバンギャルドに情熱的にと自分自身を思う。

風に揺れる葉桜の下、ざわざわと心が落ち着かない。

ひとりぼっちのおまじない

だいせんじがけだらなよさ



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サングラス越しセピア色フロントのガラスいつぱい五月の夕陽






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by minaminouozafk | 2018-04-30 08:59 | Comments(7)

大きなる手 大西晶子

去年の514日の当ブログに「藤棚の下で」という文と写真を載せた。それから1年ばかり、今年も河内藤園を訪ねた。4月なかばから道路脇に山藤らしい藤の短い花房をたくさん見る。桜も今年は1週間ほど例年よりも早いし、河内藤園のオフィシャルサイトを見ると、例年よりも1週間ほど花が早く最盛期を迎えたので、421日からは入場予約券をコンビニで買わないと入場できないとある。

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5月の連休のころにはそれこそ混雑しそうだし、かと言って連休後には花が終わってしまいそう、、、と、たまたま予定が無かった日に長女と孫と一緒に出掛けた。もともと河内藤園のことを教えてくれたのは長女で、5年越しで行きたいと思っていたのだそうだ。

ともかくコンビニで券を買い、車を走らせた。母が9年ほど住んでいたケアハウスの横を通りすぎ、河内貯水池まで行き、さらに少し山路を走って着く。駐車場にはまだ空きがあった。思った以上に入場者が少ない。入場料は1500円。花の盛りの時は1500円、散り初めは1000円、蕾の時は500円なのだとか。「1500円の時に入場できるのは幸運だと思うべき」と、あるサイトで読んだことがある。



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                                藤のトンネルの周囲には長い枝が伸びている

 この藤園を作った人は樋口正男さん、1968年に「生きた証に藤園を造りたい」と、長男と二人で開墾を始めたという。最初に植えたのは河内貯水池建設のさいに湖底に沈んだ河内村から移植、育てた現在の樹齢が120年を超える大藤だったとか。それがどの樹なのかを確かめることができなかったのはちょっと残念だった。


この日も昨年と同様に外国語をはなす入場者が多かった。中には色鮮やかなアオザイの女性二人組や、子供とお年寄りも居る家族らしい人達など、みな楽しそうに写真を撮り合い、おしゃべりしながら歩いている。

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                                          藤の蕾


先週末に退院した孫の勇太もここではエルゴ(抱っこひも)で長女に抱かれ、きょろきょろ辺りを見回している。久しぶりの外出を楽しんで居るように見える。そんな勇太の頭上に突然上から大きな掌がかぶさってきた。すれちがいざまに一人のご老人に頭を触られたのだ。
奧様らしい女性と二人連れだったが、笑顔でもなく何も言わずにそのまま行ってしまわれた。びっくりして長女と私は顔を見合わせた。

不思議な一瞬だったが、これもきっと娘一家には珍しい体験談として、藤の美しさと同時に語り継がれることになるのだろう。 



 児の頭すれちがいざまに触れゆきしあの老い人は神やもしれず
                           晶子




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by minaminouozafk | 2018-04-29 07:00 | Comments(7)

 初夏の日差しのような先日、いつものように近くのスーパーに買い物に出かけた。家を出て二つ隣りのお宅の塀の脇に緑色の小さな実が落ちていた。その場所はまだ寒さが厳しいころに、春の先駆けのように見事な枝垂れ梅が咲いていたところ。今は風が吹くと、鮮やかな若葉越しにきらきらと光が漏れている。以前から不思議に思っていたのだが、あれほどびっしりと花が咲いていたのに、その実となるとほとんど記憶にないのだ。調べると枝垂れ梅はあまり結実しないとあった。だが、目を凝らすと若葉の中に紛れて小さな実を確認できた。やはり、探すのが難しいほどその実は少ない。


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 それならばと思い、その隣のお宅の前に行くと、同じように寒い頃八重の花を美しく咲かせていた木には、こちらは押し合いへし合いするかのようにたくさんの実がなっていた。


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 実を見ると気持ちがほっと豊かになるのはなぜだろうなどと考えながら歩いていくと、次は去年の7月にブログにあげて、早苗さんに教えてもらったブラックベリーが車の往来も激しい道の脇でうすいピンクの花を咲かせていた。また季節がすすむと、ここにも次々とブラックベリーが実を結ぶのだ。


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 そして、買い物も済んで家の近くまで来た時に行きがけには気づかなかったのだが、ミカンの木の白い花が目に入った。このミカンの花には驚いた。なぜならちょうど一か月前に孫のために残しておいてくださった二つの実をもがせていただいたばかりだったからだ。まだ一か月しか経っていないのに、もう次のために花を咲かせているこの早さに草や木の健気さというか勤勉さを思った。


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 植物にしても動物にしても、生きていくためにそして子孫を残すためには機を逃すわけにはいかないのだ。省みて私はというと、身の回りにはしなければならないことをたくさん抱えているのにズルズルと先送りしている。こんなことでは、社会では生き残れないと道すがらの花や木に教えてもらった一日だった。


   重たかろ花のすべてが実になれば枝垂れ梅から落ちた実ふたつ


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by minaminouozafk | 2018-04-28 10:43 | Comments(6)

恩恵  大野英子

4年前「みつはし花見短歌会」のお土産でいただいたデンドロビュームが今年も無事開花した。

昨年までは2月頃咲いていたのが今年は4月。じっくり力を溜めたせいか花数も多く、昨年までは白だったのが(昨年の310日のブログです)くっきり色付いている。不思議。

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もう一つ、みつはし花見短歌会では毎年、近くの山で取れたタケノコを柔らかく茹でたものを沢山お土産にといただく。
先ずは柔らかい穂先をサラダで食べて、和洋中と毎日楽しんだ。
そして残り僅かとなった金曜日。
翌日の宗像歌会のために実家に泊まる。ふと、両親が生きている頃は玄関横に小さな山椒の木があった事を思い出した。
父が手入れさえ出来なくなって、枯らしてしまった。

山椒があれば木の芽味噌を作って木の芽あえで締められたのにな……と残念に思った。

翌日、歌会に行くと私の席に、小さなタッパーが。
開けて見ると摘みたての木の芽。
そしてもう一人、展男先生にお手紙を書いたよ。と小さな包みをいただいた。

帰って開くと、手作りの木の芽味噌と「展男先生がお元気な頃、玄関横の木の芽をいただいて作っていたのを思い出しました」とある。少し涙が出た。

すぐに「私も同じ事を思い出していました」とお礼のお手紙を書いた。


その夜はもちろん木の芽あえ。摘みたての葉もあしらいにして。

私は鰹出しを効かせて薄味に炊いて合わせただけ。

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恩恵という言葉を思った。

     ほろ苦く甘いたけのこ一献のささ添えるとき笑む父と母



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by minaminouozafk | 2018-04-27 07:18 | Comments(7)

気をつけていてもどこかに置き忘れてしまうもの。

かぎ、かさ、めがね……

そこに加齢が加わったことでますます探しものする日々。

以前は「かぎ」が多かったけれど、リビングに定位置を決めてからはほとんど探さなくなった。
「かさ」も娘にプレゼントしてもらってからは大丈夫。


残るは「めがね」。
「かぎ」に倣って定位置を決めているけれど、これがなかなか難しい。活字を見るときに無意識にはずしてしまい、しかも没頭すると見失うことがしばしばなのだ。短歌を作るときもあぶない。

スマホは紛れてしまっても番号にかければ居場所を教えてくれる。シール式の小さな小さな発信器(ICタグ?)があって、リモコンのスイッチをポチッと押すと鳴り出してくれるとありがたい。めがねに貼って、見失ったら鳴らして探す。ヒット商品になると思うのは私だけだろうか。


ところで、めがねがなかなか見つからないときには、お助け用の眼鏡に登場いただく。いつもは机の抽斗でひっそり休んでいる眼鏡。フレームの形も古く、度数も微妙に合わなくなってしまっているので普段使いしていないけれど、こんな時に力を発揮してくれる。掛けた途端、視界がはっきりして、さっきまで探していたところの直ぐ近くにちょこんと置かれているのを発見することもしばしば。

仕事を終えた眼鏡は再び抽斗の定位置で、次の出番に備えていただいている。



斎藤茂吉に眼鏡の歌がある。


日に幾度にても眼鏡をおきわすれそれを軽蔑することもなし  『霜』


昭和17年の作なので、このとき茂吉は60歳。自然体。


おのが身しいとほしきかなゆふぐれて眼鏡のほこり拭ふなりけり 『赤光』


という作品もある。眼鏡も身の一部のように慈しまれている。


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定位置のめがねにふれて安堵せり霧の小径に迷へるわれは


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by minaminouozafk | 2018-04-26 06:00 | Comments(7)

この春は、たんぽぽを観察する機会に恵まれた。ぽぽ。


そんなこともあって、ななみさんの記事(4月2日)に、

たんぽぽのタンポポタンポポした姿が紹介されたときには嬉しかった。


たんぽぽを見ると思い出される歌や詩や句がある。ぽぽ。


そのうちの一つ。


  郷里柳河に帰りてうたへる歌

  廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける

                       白秋『桐の花』



春は短い。

この辺りでは、もう、たんぽぽの盛りは過ぎてしまった。ぽぽ……


今年の春の記念に、たんぽぽの写真を掲げておこう。


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                《カンサイタンポポ》


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                《シロバナタンポポ。下も》


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  ちぢみつつ子猫消えたりたんぽぽの白き綿毛の球体のなか




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by minaminouozafk | 2018-04-25 06:48 | Comments(7)

第四火曜日。

マイルールで、この日は歌集紹介をすることにしている。(今年からね。)

で、今回は、川野里子氏の第五歌集『硝子の島』。


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五章からなるこの歌集には、ヴェネチアで知った東日本大震災とその後の原発禍、そうした出来事を日本の外側から見つめることで終末へと歩を進めるこの国への危機感が浮き彫りになっている。

また、老いてゆく母との、埋めようのない心理的な距離感が随所に詠まれていて、高齢社会日本に生きるかなしみが胸に迫る。

この記事で作品を紹介したいところだが、この歌集、「水城」270号に評を書かせていただきたいので、詳しくはそちらをご覧下さると幸いである。


今日のところは、次の一首をご紹介。


・罌粟咲くかまた罌粟咲くか罌粟咲きてなぜふるへるかなぜうつむくか


この作品、いかがだろうか。

どういう印象、読後感を持たれただろう。

私は怖かった。

罌粟の花のことしか言ってないのに、世界が終わるような虚無感に襲われ、たましいが逆撫でされているような感じがした。

罌粟は異名阿片草。可憐な姿とミスマッチな不穏さを湛える花。それが次々に開き、そして震え、うつむいているという。まるで開いてはいけないものを開いてしまった罪におびえるかのように。


素材とリズム。

内容の具体は一切告げず、世界の危うさをそれのみに伝える一首。時事を常に自身に内在させ、咀嚼して作品化するからこそ可能になる抽象化。「ふるへる」「うつむく」という下句の動詞が、観念に流れるのを救っている。

ただ一首を紹介するだけで、この歌集の充実ぶりが想像できるだろう。圧巻の一冊であった。



  ぬるま湯に首まで浸かりぬるいねと従順にして言ひあへるのみ



*二月の歌集・歌書紹介(『いただいた句』本阿弥秀雄著)の記事を俳句雑誌「春月」五月号で紹介いただきました。御本、ご恵送下さいました戸恒東人さま、ありがとうございました。大変うれしく拝読いたしました。

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by minaminouozafk | 2018-04-24 02:23 | Comments(7)


友だちに誘われてふたたびの尾道、1か月ぶり。

最高の青空だが、向島には500人以上の警察官が捜索中のこのたびは島へ渡ることは断念。

気儘な女子旅は路地探索。坂道、階段の続く町。寺の町。猫の町。


そして尾道市立美術館の企画展〈にゃんとも猫だらけ〉。

ポスターもとても魅力的、色あいも素敵。



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まずは大きな大きな猫ちゃんがお出迎え。


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『にゃんとも猫だらけ』は浮世絵に描かれている猫たちの展示会。

猫を愛してやまなかった歌川国芳をはじめ多くの多くの浮世絵師によって繰り広げられる猫だらけの館内。

とにかく面白く楽しく可愛くちょっと怖い。


まず歌川広重の白猫ちゃん。とおくの富士山をながめつつ夕暮れの窓辺にすわっている。

酉の市のある浅草吉原らしい。ちょこんとした尻尾、ちょっと怒ったような思索にふけっているような後ろ姿がたまらない。


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美人画にも猫。源氏物語の若菜上では、女三宮の猫事件は有名。それを題材とした美人画も多い。

美女と猫。裾に肩に胸にもぐりこむちょっと怖いリアルな猫ちゃん。


歌川国貞の作品。肩にチョコンと座った猫のカメラ目線がなんともかわいい。国貞もたくさんの猫を描いている。


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楽しいのはおもちゃ絵の猫たち。人間のようにふるまう猫だけの世界。猫の長屋、猫の温泉。めちゃくちゃ細部まで凝っていてそれぞれに添えられている言葉がなんとも粋である。



図録まで買ってしまったのだが、小さな筆書きの言葉をきちんと活字にしてくれていて非常にうれしい。

ねずみとり薬を売る猫、重い重い鰹節を運ぶ猫、玉転がしをする猫・・・




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猫も温泉では履物を脱ぐ。湯船にもゆっくり浸かる。打たせ湯もある。湯上がりにはお二階で刺し身で一杯もできるようだ。にゃんとも楽しい。


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大の猫好きの山東京山・作、歌川国芳・絵の『朧月 猫の草紙』。


耳が遠くなった山東京山は、耳の名医「みけ村にゃう庵」によって耳が聞こえるようになっただけでなく、猫の言葉がわかるようになった。

猫から聞いたおはなし。国芳の擬人化された猫たちの表情が実にゆたか。


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まだまだ紹介したい猫たちは数多。これらの作品は平木浮世絵財団のコレクション。

現在、平木浮世絵美術館は閉館しているが、全国の美術館・博物館にてコレクション展を開催。



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尾道の路地で出会ったうるわしき黒猫






フォークもつ指に肉球 着こなしのお洒落な猫とランチする夢



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by minaminouozafk | 2018-04-23 07:39 | Comments(7)

街路樹の花  大西晶子

このところ、福岡に行く機会が多い。気温が上がり、初夏のような日が続いているが、そんなある日天神の〈きらめき通り〉と呼ばれている道路で、街路樹に濃いピンクの花がたくさん咲いているのに気が付いた。桐の花のように枝から花が塔状に立ちあがって咲いている、初めて見る花だ。

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似たものと言えば、札幌の蜂蜜店で見かけた蜜を採取する花の写真のトチノキを思い出した。しかし北海道にあるものが九州にもあるのだろうか。トチノキと言えば栃木県の県木だが、こちらもずいぶん遠い。

疑問はすぐに調べるべし、ということで「福岡市、街路樹 

天神」と検索したら、ヒットした。福岡市の「街路樹路線概要検索」というサイトの「福岡市中央区の街路樹路線概要」というページに市内の通りの名と街路樹が書かれた一覧表があったのだ。

きらめき通りの街路樹はベニバナトチノキとあった。成程、赤い花で納得した。



トチノキを調べてみたら、日本では東日本特に東北地方に顕著に見られる木で、近縁種のセイヨウトチノキがフランス語名マロニエとしてよく知られるとある。また、トチの漢字表記には栃と橡がある。

〈きらめき通り〉の街路樹のベニバナトチノキ(紅花栃の木)は北米南部原産のアカバナトチノキとヨーロッパ原産のセイヨウトチノキの交雑種だという。いづれにしても、初めて見るトチノキの花、巫女さんたちが〈浦安の舞〉を舞うときに手にする鉾鈴と良く似た形の円錐花序の濃いピンクが青空によく映える。


初夏を思わす青空のもと〈きらめき通り〉の花咲くベニバナトチノキの下を、大半はは若い歩行者たちが足早に、あるいは大きなスーツケースを引きずりながら通り過ぎていく。

閑(しづ)けかるかくのごときを我が云ひて黄の橡(つるばみ)の夕霧のいろ                北原白秋『橡』        
 この歌の橡は秋の落葉前の木なのだろう。

 

(とち)並木雪ふれる夜をえいえいと呼ぶ木、おうおうと応ふる木あり                         

                       高野公彦『水行』
冬の夜になればこんな風景も見られるかもしれない。

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      紅き花に近寄るわれを足早の若きら避けゆく橡(とち)の樹のした
      
                                             晶子






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by minaminouozafk | 2018-04-22 09:24 | Comments(6)

 頭や尾が見るも無残に傷ついた鳥の置物がある。アオカケスは全形をとどめているが、ウグイスとミソサザイには尾が無い。ミソサザイにいたっては頭から胸の部分も素材がむき出しになってしまっている。見ているだけでも可哀想で、飾り物としてももう使えないのだが捨てることが出来ずに夫の部屋の棚の上にずっと置いてある。


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 この鳥たちにこんな悪さをしたのは、息子たちではなくて5年前に亡くなった猫のいねである。鳥が大好きだった。生まれて一年ほどは外に自由に出ていたので、テリトリーの公園や駐車場に来る雀や鳩を知っていた。くわえて彼女の鳥好きは母親譲りで、野良猫だった母親がお腹にいねたち兄弟を抱えていたとき、跳び遊ぶ雀を目で追いながらその口からつつつーっと長いよだれを落としているのを目撃したことがあった。縁あっていねはわが家の猫になったのだが、その鳥好きは家飼いをするようになってからは窓辺から電線に留まっている鳥を眺めることでしか満たされないようになった。


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<わたしがいねです>


 この鳥の置物がどういう経緯でわが家にあるのか忘れてしまったが、三羽とも息子の机の上に置いていたと思う。そんなある日、鳥の尾のところに歯型のような穴があいていているのに気がついたのだが、とりわけ気にもとめずに過ごしているうちに次第に傷は深くなり、そしてついにその現場を押さえるにいたったのである。いねが必死の様子で鳥の頭に食らいついていた。


 そんな思い出のあるものなので、いざ処分しようかと一旦は手にしてもまた「まぁ、いいかっ」と元の場所に戻してしまう。実は、家の中はそんなもので溢れている。長男が小一の時に描いた遠足の絵は、初めて見た乳牛が強烈な印象だったのかおおきなお乳に乳首が10個以上ある。次男が高校生の時に運動会で三年間演じた応援団の学ランの衣装。お針子さんの女子生徒が綺麗にかっこよく作ってくれたものだ。


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 しかし、考えてみるとその思い出にこだわっているのは私だけなのではないかとも思う。私さえ頭を切り替えれば、家の中はすっきりと片付くはずである。そうは言っても過ぎた時を手に取れるものがなくなってしまうのも寂しい。いつもこの二つの思いの間で揺れているので、わが家は一向に片付かないままだ。


   思ひ出を胸にしまつてわたくしは抱卵をするめんどりになる


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by minaminouozafk | 2018-04-21 11:02 | Comments(6)