2016年 08月 31日
あなたでしたか
有川知津子
なにか散文と歌を一首。ある日突然「南の魚座」は始まった。
画像についての約束事は特になかったように思うが、一番手二番手三番手――、
みんな、何てことないよって感じで、実に味わい深い写真をあげてゆく。
私と機械モノとの相性はソートーなものだ。印刷機なんて近寄っただけで紙詰まりを起こしてくれる。
だから急ぎ仕事で印刷機を使っている同僚のそばに近寄ってはいけない。
いくつ型オチしたか分からない、この二つ折りの携帯電話にカメラ機能があることは知ってるし、写すこともできる。
だがしかしそうは言っても、どうやったら電話の中の写真がパソコンの中に移るのっ? というレベル。
画像かあ。デジカメ買うかなぁ~ (デジカメならできるつもりでいるところがおかしい)
私のそんな呟きを母は聞いていた。
計算していたわけじゃないが、ほどなくして父がデジカメをもってやってきた。いろいろ説明してくれる。
なんて娘孝行な父だろう。もうガゼン、親孝行せねばという気になる。
使ってみなさい。とにかくやってみたがいい。
――ああ、そうでしたか。
やつてごらん この口癖のみなもとはあなたでしたか父の手をみる
はい、と言ってやってみる。
*画像縮小指導は当ブログの縁の下のクリクリ氏!
2016年 08月 30日
夏の終わり
2016年 08月 29日
自由研究
8月も残すところ3日。ということは、夏休みもあと3日。子育ても終わり、このごろはすっかり夏休みを忘れている。
私自身、厳しい母親のもと夏休み帳は7月いっぱい。自由研究、工作、読書感想文とぴしっと管理された従順な一人娘だった。しかし、本来、ぼぉっとしている怠け者の私。息子達には自由にと、放っておくといつも親子でたいへんな夏休みの終わり。なかなか真面目にとりくまないくせに、息子たちは自由研究が好きだった。
お盆休みを終えて、また空き部屋となった子供部屋を片付けていると、自由研究が入ったダンボール箱を発見した。ありの観察、かがみのふしぎ、パンのカビ。なつかしい。なかでも、釘付けになったのは、〈しおのみちひき だんぐ川 〉だ。2年1組とある。長男が小学2年の時の夏。「ぜんぜん雨降ってないのに、今日は壇具川すごい水やったよ。」この一言から朝な夕なに壇具川河口の石段に通った夏だった。幼稚園児の暇な二男もけっこう一緒に通った。ただ、石段の何段目まで海水があるかを観察するアナログ的なものだった。満月の時は本当に潮が満ちてくる。上ってくる円かな月と川面をただ眺めていた。月明かりのなか泳いでいたボラの子たち。釣りをしているオジサンと仲良くなったり。大潮の時はこんなにも引くのだと驚き、海岸まで走って行ったり。蟹や亀とも遊んだ。ゴミだらけだった台風あとの河口。ゆるいゆるい時間が流れていた。
今はいろいろな自由研究キットもある。インターネットで簡単に検索できる。また、自由研究代行業なんかもあるらしい。ケータイもネットもない時代。それは、ほんの少し前。人間は次々と新しい発見をし、疑いもなくそれを取り入れ進化と思っている。すばらしい叡智であるが、元にもどることは非常に難しい。恋だって絶対にスマホなしのほうが良いと思うけど、息子たちには無理。一人ひとりが流されずに進めればと思うのだが。ブログを書きつつも、ゆるい時代の流れから抜け出せない。いや抜け出したくないのかもしれない。

パソコンがなくてよかった息子らのゆるくてあつい自由研究
百留ななみ
2016年 08月 28日
「歳をとったら分かる」

昨夜おそく2泊3日の旅から帰ってきた。家人の大阪での仕事のお供だが、宿泊は別、行きと帰りだけが一緒という半一人旅。
1日目は旧友に会いつもる話に花を咲かせた。
2日目は少し足をのばして、高野山へ。大阪が36度という猛暑日でも海抜1000メートルの高野山は29度くらい、涼しい。
先ずは弘法大師の安置されている奥の院へ向かう。ここは杉の大木の間に古いお墓がならぶ。戦国武将や大名家のお墓が多い。
織田信長、徳川家康、明智光秀、石田三成、豊臣家、etc.と何でもありと言う感じ。
前田家もあれば、黒田家もある。亡くなってから何百年もたち、敵・味方なく、みな静かに眠っている。
中には浄土宗の創始者・法然上人のお墓までがある。宗派は違えど、弘法大師のおおらかさを宗法然上人が慕って来られたのだという。
死者たちの眠りをさまたげない様に静かに、それでも時には笑い声も立てながら参拝の人たちが歩いている。
途中に芭蕉の句碑が立っていた、「父母のしきりに恋ひし雉の声」と丸い石に彫ってある。芭蕉が来たころには参拝の人などほとんど無かっただろう、この奥の院を歩くときの人恋しさも想像できる。寂しい時には芭蕉も両親を恋う、俳聖もやはり人の子なんだと納得。
弘法大師廟を参拝した後で、入った食堂では家族連れが多い。大抵は高齢の親と子、若者の孫らしい。車椅子の高齢者も居る。みな孝行息子や娘だと感心する。
かって母がそこそこ元気だった頃を思い出す、母にねだられてよくドライブをした。母はそのころ寂しかったのだ、車の中で私と一緒に座っていたくてドライブしたかったのだろう。
当時は私も何かと用事が多く、ゆっくり母と向き合うことも少なかった。
亡くなった今では悔いが残るが、つい時間を気にして行動の遅い母に「早くして!」と言っては、「歳をとったらあんたも分かる」と言われたものだ。
「歳をとったら分かる」そう、その通り。
高野山での見学もそろそろお終いにしようと思った頃に足が突然つった。足には自信こそないが、こんなことは初めてだ。
まだあと一時間くらいはこの町でぶらぶらしようと思っていたのに、あっけなく撤退。
近くの甘味屋で休息、予定より一本早い電車で大阪に戻った。
午後六時半、戻って来た大阪の暑かったことは言うまでもない。
金剛峯寺にて
襖絵のやなぎに雪の意匠怖し秀次自刃の六畳のへや 大西晶子
2016年 08月 27日
懐かしい手作り玩具
デパートのおもちゃ売り場に久しぶりに行く機会があったが、今のおもちゃ売り場の賑わいには驚いた。乳幼児の発達についての研究が進んだせいか、月齢ごとの「知育玩具」があり、子供服が買えそうな値段の着せ替え人形の衣装、外国製のおもちゃなど隔世の感があった。
五十年前の子供たちも、力いっぱいあそんでいた。石けり、ゴムとび、陣取り。夏はしゃぼん玉、冬はみかんの汁であぶり出しもした。親も一緒になって遊びを教えてくれた。
父は多くの父親がそうだったように竹とんぼや凧を作ってくれ、羽根の厚さや凧の張り具合や足の長さを調整して最高のおもちゃを与えてくれた。
私の机には地味な色の三つのお手玉がある。母が自分のブラウスを縫った余り布で作ってくれたもので、半世紀経った今もまだ手元にある。持っているからといって練習などすることもないのだが、たまに手に取ると掌に優しく馴染む。母は唄を歌いながらお手玉三つを上手に操っていた。今度母に会ったら、もう一度お手並みを見せてもらおう。

<30年前買ってしまった知育玩具と母のお手玉。結果は既に出ました(笑)>
数へ唄思ひ出せずに投げ上げるお手玉三つわが裡に落つ 栗山由利
2016年 08月 26日
松葉牡丹
夏の始めにプランターの手入れをしていると、なぜか父が好きだった松葉牡丹が小さな芽を出していた。さっそく別の鉢に植え替えた。
子供の頃に住んでいた長崎の家の玄関先の小さな花壇にも、父が元気な頃は実家の玄関先にも、夏になると松葉牡丹が花を咲かせていた。
なぜ好きなのかと尋ねると「宮先生も育てておられたから」と答ていたっけ。
宮柊二 松葉牡丹の歌から
熱くなる土としおもふ五月二十八日松葉牡丹を越ゆる蟻あり『晩夏』
乾きたる土に影置きかたまれる松葉牡丹に小さき花咲く
雨となる曇り日の午後秋ふかき松葉牡丹の種子(たね)採りにけり『日本挽歌』
朝光は寂しきものとおもふとき露まみれなる松葉牡丹花
病む父の生きの命の衰へを日々見守るに松葉牡丹咲く『多く夜の歌』
暑き日の朝より差すに庭の隈(くま)松葉牡丹の色こぞり咲く『藤棚の下の小室』
日本のかの日復返(をちかへ)り松葉牡丹あかあか咲けり手記四百篇
その時教えてくれたのが三首目『日本挽歌』巻頭の一首だった。
それならと、私もプランターで育て、秋には種を採っていた。
その習慣が途絶えたのは、何時からだろう。

出所不明の松葉牡丹の花は鮮やかな赤だった。
育つほどに紅を深め、今でもまだ花を咲かせて色味の乏しかったベランダを華やかにしている。
「気持ちを明るく」と父から言われているような気がする。
「みやせんせい」と口いづるときしあはせに溢れてゐたよ父の口許 大野英子
今夜は実家へ行く日。父が大好きだったゆかりさんの、新しい歌集を読んで聞かせよう。きっと写真の中から照れた笑顔を見せてくれるだろう。
2016年 08月 25日
恩猫

2016年 08月 24日
ふたいろの風
有川知津子
お盆の中日のこと。居間で母と話していた弟が、両の手のひらで何かを包むようにして立ってきた。
中庭に降りたいようだ。けれども、そんな不器用な格好だからおもうようには戸が引けない。
わたしが見ていることに気づくと、手のひらの包みを軽く持ち上げて、蜘蛛、という。
お盆だからね、と声に出したわけではなかったけれど、弟はそんなふうな顔をして庭をみた。
――たしかに。
たしかに、誰がどんな姿で帰ってきてるか分かったもんじゃない。庭に出してやろう。
戸を開けてやった。ふたいろの風交叉する夏の夕おとうとは蜘蛛を葉蔭にこぼす
蜘蛛はしばらく死んだふり(「擬死」というのだそうだ)をしていたが、
この生物(私と弟)は無害だなと判断したのか、葉蔭といえども暑気に蒸されてたまらなくなったのか、
それともただ時間が切れただけなのか、いずれにせよ、すわっと手脚を伸ばして動き出した。
海水と淡水が交わるところを汽水というけれど、彼岸の風と此岸の風が交わるところを何と呼ぶのだろう。
いつの間にか、灯籠に火をいれる時刻になっていた。
甥っ子のために、
父がもらってきたクワガタ。
島の産。
昼間に起こされて迷惑そう。
(起こしたのはわたし。ごめんね)
何匹かまだ、木屑の下にもぐっている。
今は街暮らし。
2016年 08月 23日
小島ゆかり歌集『馬上』

藤野早苗
ゆかりさんの第13歌集『馬上』が届きました。
2013年から2015年夏までの、ほぼ2年間の作品の中から519首を収録。
先行する『純白光』、『泥と青葉』もこの時期の作品が収められていますが、それを除いてもこれだけの歌数が採れるというのは、ゆかりさんがどれほど多忙であったかの証左でもあり、ただただ圧倒されるばかりです。
・いま湧けるこのあたたかき感情は要注意、また思ひ出がくる
・蟬はもう何かに気づき早く早く生ききつてそして死にきれと鳴く
・いくつもの落蟬を見て秋に入る 落蟬は旅の眼をしてゐたり
調べのやさしさはゆかりさんだけれど、常ならざる切迫感があって、それがまた読者を作品世界に引き込む。
・街はもうポインセチアのころとなり生老病死みな火と思ふ
・未来まだ白い個体でありし日の真冬のあさの牛乳石鹸
ポインセチアの赤から生老病死へ、白い石鹸から開かれてゆく未来へ、どうしてこの人はこんなに自在にイメージを飛ばせるのだろう。その底に悲しみの影をのぞかせながら。
・こつぜんと父ゐなくなり一人子のわれの背負子を照らす月光
・あれは天の誤植ならずや神保町を行けば小高さんに会へる気がする
・悲しいなあ今年のさくら父あらず久津さん小高さん大野さんあらず
本歌集は挽歌を多く収めている。まずは父上。長い看護・介護の時間の後、旅立たれた。
・終はれよと思ひ終はるなと思ふ介護のこころ冥き火を抱く
介護はきれいごとでは済まない。そんな日々の後の欠落が「背負子を照らす月光」に表れている。
小高氏の訃報にみな驚いた。何かの間違いにちがいないと。「天の誤植」、本当にそうならいいのに。
久津さんとは、福岡の超短歌結社「飇」の編集発行人であった久津晃氏。ゆかりさんは「福岡のお父さん」と呼び、親しまれていた。
大野さんは、いわずもがな、コスモスの選者大野展男氏。福岡コスモスの牽引者であった方。
請われ、招かれて日本各地を訪うゆかりさん。その地での邂逅を疎かにせず、親交を深める人であるからこそ、永訣の悲しみは深い。いのちへの思いが一際深い人なのだと思う。
・一叢立ち藪くわんざうの花あかく女は多く生き残る生
「藪くわんざう」の生命力、たしかにそうだと納得。直観力、すごい。「生き残る生」としての諦念と覚悟がある。
・ああ、あの日父を送りし多磨斎場けふは宮英子さんを見送る
・手箒で集むるしろき骨の嵩 ほんたうに英子さんなのですか
・藍ゆかた見れば辻本美加さんの無念を思ふその藍さんを
・早すぎる死はあるものを遅すぎる死はなし英子さん美加さん、会ひたし
巻末近くに置かれた「英子さん美加さん」一連より。
英子さんはもちろん、宮英子氏。平成27年6月26日、逝去。享年97。
美加さんは、辻本美加さん。このブログ「南の魚座」の発起人のひとり。英子氏逝去の前日、6月25日に亡くなった。享年50。
こうした作品を通して、あの時の悲しみを共有できることをありがたく思う。ひとりで抱えるには大きすぎる悲しみだったから。
「早すぎる死」はあっても「遅すぎる死」はないという言。沁みる。
50代後半とは訣れの時期なのだと実感する。親や先達、これまで自分を庇護してくれていた人々の老いを看取り、格闘し、その受容の果てにようやく訣れはやってくる。その葛藤から逃げず、自分を見つめ続けたゆかりさん。小島作品に魅かれるのは、生来の韻律の美しさ、修辞のみごとさ以上に、小島ゆかりという人間への信頼が置けるからだと思う。
・でたらめな理屈でわれを褒めし父ゐなくなりひとり鳩を見てをり
そんな素敵な人に育てて下さったのは、父上。溺愛という言葉がぴったりの慈しみ様。そんな愛し方は親しかしてくれないし、そんな愛され方をした人間は、他者への思いが深く、やさしい。
・かなしみを筋肉として立つごとき馬の齢を重ねたしわれは
・飛騨山脈燃ゆる大夕焼けのときわれは馬上の人になりたし
歌集名の由来、馬に因んだ作品の中から2首。
「馬齢を重ねる」とは、馬をつまらない存在の謂いとした謙遜の意を表す言葉。それをまるきり裏切る形で1首を為し、秀歌に仕上げている。「かなしみを筋肉として立つ」とは、馬の眼差しを間近で見た者には深く納得できる。馬の共感能力の高さは慈愛の眼差しに表れている。
「馬上とはあきかぜを聴く高さなりパドックをゆるく行く馬と人」、こんな歌もある。「馬上」とは、ただ秋風を聴く場所。日々の喧騒からほんの少し離れて、たましいを遊ばせる場所。
ゆかりさん、ご多忙はずっと続くでしょうが、しばらくは馬の背中に揺られて下さい。少し疲れてしまったたましいを、のんびりさせてあげて下さい。私ももう一度、『馬上』を読んで、こころを解きたいと思います。
素敵な歌集を読ませていただいたこと、感謝です。
また馬に乗りたくなりました。
2016年 08月 22日
青鷺くん
歩けるところは車をやめて歩こうとの決意も、この暑さで歩く範囲がどんどん縮小している。海までも徒歩10分ほどの小さな城下町長府。8月の今はもっぱら日陰の多い壇具川・忌宮神社コースだ。
川幅10メートルほどの壇具川だが、名前の由来は神功皇后が出陣の際に壇を築いて祭事をおこない、それに使った道具などを流したことからのようだ。春はさくら。初夏には蛍も飛び交う。この頃は中国語や韓国語の団体もたくさん散策している。息子たちの通学路でもあった。
ここ最近の壇具川での小さな愉しみは、青鷺くん探しである。たくさんの鴨に混じってたった1羽の青鷺くん。橋の下だったり、ハーレムのように鴨のなかに君臨してたり。毎回会えるわけではないが、通るたびに気になる。同じ1羽かどうかも定かでない。でも、見つけるとうれしくて一方的に話しかけている。にらめっこして迷惑そうに青鷺くんが小さく羽ばたくと、今日は私の勝ちとほくそえんでいる。
連日の猛暑日、熱帯夜で早朝の散歩も小止み。青鷺くんともちょっとご無沙汰だった。夕暮れどきの久しぶりの壇具川。お~い青鷺くん。川には姿がない。橋の下も、草の中にも。この炎暑、青鷺くん大丈夫か。大きなお世話にちがいないが、ふられた気分で夕空を見上げるとなんと屋根の上に。私など目もくれず、孤高に薄墨色の空を見上げていた。夕闇せまる西空に小さなひとつ星。

〈蛍遊苑の屋根の上の青鷺くん〉
夕空のいちばん星を待ちてゐる蛍遊苑の屋根のアオサギ
百留ななみ