カテゴリ:歌誌・歌集紹介( 47 )

帯文に〈老境に入り生の意味をみつめ直す中、歌は生まれる。田を潤す水や野の花、蝶や虻などに心を通わせる日々。七十年に及ぶ作歌歴に鍛えあげられた自在な言葉と発想は独自の境地を開き、読者の胸を打つ。生きる喜びと悲しみを込めた第五歌集〉とあり、言い尽くされた感がある。

どうしても紹介したかったのは、帯文中の〈生の意味〉を多くの方と共有出来ればとの思いからである。
思えば、これまでも矢野京子さん、前田茅意子さん、と晩年を詠む歌集に深く心が惹かれた。

歌人としては、これからの若い作品も多く読み吸収して行かなければならないと思う。しかし、これから老後を迎える人間として、先達の「老後を生きる指針」といえば陳腐になるが、悲しみも苦しみも引っくるめた思いを受け止めて、糧にしたい。

そう思わせてくれる歌集なのである。

コスモス誌で田宮さんが紹介されているように、古屋さんは多摩時代から宮英子氏を先輩と仰ぎ共にコスモス創刊から参加、後年には選者も務められながら、群馬で代々農業を営まれていた。

頂いた年賀状には毎年、地元の野の花や海外旅行先でのスナップ、80歳の頃はスクーターに乗るお姿など、行動的なご様子が伝わって来た。

お若い頃の作品には
  農継ぐと決めたるおのれ寂しむに紺のモンペがいつか身に添ふ
  居直りて此処にわが生遂げなむかかぜにきしきし梁軋む家
                    第二歌集『虹の弧』
と、生まれ育った地で農業とともに生きる覚悟を詠まれていた。

示唆に富む作品から。
  〈明日では遅すぎる〉こと原稿の締め切り 命の締め切りもまた 
  要らぬことを見過ぎ聞きすぎ毎日の時間を無駄にしてはをらぬか
  鈴虫の縄張りいつか蟋蟀(こほろぎ)の域となりをり 草の陰濃し
  一ねんを一生として生き替はる〈草の時間〉は人よりも濃し
  美しき花をきそへる世よ続け戦時経て来し者の願ひぞ
  輝やかに咲くため、充ちて散るためぞ、太く四方へ張る地上根
  ほんじつの気力の有無が吉凶を左右するなり今日は大吉
1、2首目の日常を見回しながらの思索は、読者を立ち止まらせる。
3、4首目、虫や草の生を詠みながらも人生を思わせて深い。
5首目、「平和(1)」と小題のある一連から。ABEさんに聞かせたい。
6首目、「平和(2)」桜の開花を丁寧に詠む一連から。歌集の題名にもなった「地上根」は歌集の初めに「横室の大榧」と共に写る写真もあり、自然の生命力が古屋さんの生命力の源であることがわかる。
この歌も桜木の力強さと開花の喜びが伝わり、一連最後には〈花の下そろりとシルバーカー押すは格好悪いが無視せよ 燕〉と老いても自然と共にある姿が浮かぶ。
7首目の自身に言い聞かせるような前向きさが良い。

ご主人が亡くなられた一連から。
  呆と在るこの世のわれの持ち時間ドライアイスが減るやうに減る
  尽くすだけ尽くしたからに嘆くこと止めて私の生を尽くさう
  カーテンを開けるは夫の朝の役 夫がをらねば夜明けが来ない
  夫逝きて介護のうれひ最早(もはや)なしこころ傾けて何を見ゆかむ
哀しみのなかにも残りの人生を大切に生きようという真摯な気持ちと残された者の心の揺れが丁寧に詠まれる。

ご高齢者ならではの視点から。
  「長生きをして」と繰り返し言はるるは若しや危ぶまれゐるとふことか
  入院の署名の文字をほめられぬ高齢者へそんな誉めかたがある
  生、老、病越えて来たりぬ、あと一つ済ませば私の生が果たせる
  娘()にすべて暮らし委(ゆだ)ねて〈無力〉とふ〈力〉なほありわれの存在
当事者でなければ気付かない〈老い〉を鮮やかに提示してくれる。

最後になったが自然に心を通わせる作品。
  風鳴りは竹の鳴る音、葉が騒ぎ幹が打ち合ふたかむらの中
  黄金の柚子の実がもぎ尽くされて暗緑の樹はいたく不機嫌
  旧友をよろこぶやうに迎へられ田の余りみづ野川に戻る
  さくら散りれんげう終り下草に陽が差せり さあ背伸びをしよう
  田いち枚また一枚とめぐりては楽しかるべし水のみちくさ
  この青さ、この邃(ふか)さ、これ今朝の空 よべの一夜の風のたまもの
  野の花に見入り小川にかがみ込み、われや蝶とも虻とも仲間
  光合成まつただなかか、街路樹は太陽に向かひみな伸び上がる
叙景で終らせない自然との一体感、どの作品からも説明不要の自然を慈しみ、共にある喜びに溢れる。
3首目は〈坂東太郎〉と小題のある一連11首の最初に置かれる。農業を支える利根川を生き生きと詠む地元愛。
6首目は関東平野に吹き下ろす空っ風、赤城下ろしと雪害を詠んだ一連最後の歌。この一連にも雪害に倒れた松の「地上根」が詠まれるが、厳しい季節となっても全てを受け入れる清々しい一連である。

余りにも潔い「あとがき」も含め、〈生の意味〉老いることの意義を強く感じ、私もしっかりと前を向いて生きなければと励まされるような、帯文通り胸を打たれた一冊だった。

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        草木愛でぐんまに地上根張りて生きゐるひとを嘉せよ冬陽


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by minaminouozafk | 2018-12-07 07:03 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(6)


1014日のこのブログに「鹿児島寿蔵の人形と短歌」という展覧会のことを書いた。(11月21日には知津子さんも「鹿児島寿蔵の紙塑人形」を書かれている。)そのときに鹿児島寿蔵歌集『ははのくに』を持っているので読みなおしたいとも書いた。もう30年くらい前に読んだ歌集なのだが、ほとんど内容を覚えていなかった。本棚から捜し出し読みなおしてみた。
 昭和50年11月に初版が出て、手元にあるものは昭和60年9月に発行された4刷とあるから、よく売れた歌集だったようだ。



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あとがき(巻末小言)から引用する。「主として母を詠んだものと其の生涯を過ごした故郷博多を中心とした風物像と感懐とをもって編まれて居ります。」事実、眼の見えぬ母への思いと、ふるさと福岡の地名や祭が詠みこまれた数々の歌が並んでいる。

寿蔵の人形と同じように、不思議に瑞々しくしかし懐かしさをも覚える一冊だった。印象に残った歌を並べてみる。



 豌豆飯たかむとさやをむく母の見えぬ其の目よ小さき膝よ 
 

うまごらと息子らがテレビに集まれば今宵はまじりぬ盲の母も

父母と甘海苔(あまのり)摘みし那珂川よ潮おちゆきて泥土のにほひ

大寒の夜の灯のもとにつやつやと魚の剥身(すきみ)の花に似て見ゆ

かく老いて笑ひあへども少年の日の争ひは菓子ひとつのこと

両眼の盲ひし母の膝におく其の手のかたちいふべくもなし

宗七が練りたる埴の仙厓像この克明の箆のあとを見よ ※宗七は博多人形の祖といわれる正木宗七

 吾が紙塑のカッパはただの子供にて首には護符を吊りてやりたり

荒縄をさげていさらひあらはなる山笠びとのみづみづしさよ

さえざえと太鼓とどろき潮(しほ)よりも速く人動き山笠走る

またの世にゆきても母はめしひびと明るく灯せ盆灯籠を


ところで次のような祭の歌に出会ったが、この祭りは今も行われているのだろうか。

わくらばにあひたる島のドンタク日漁夫(あま)ら化粧して真昼の暑さ

海の業やすみて一日ドンタクに女のなりの男ら花やぐ


 たびたび詠まれている志賀島でのことかもしれないが、もしご存知の方があったらぜひ教えてください。



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       母を恋ひふるさと博多に帰省せし寿蔵を向かへしあかつちの山





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by minaminouozafk | 2018-12-02 07:00 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(6)

 桜が紅葉していた。気づかなかった。こんなに赤くなっていたのに。迂闊だった。

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 この樹に満開の花を仰いだのはもう半年前。うそのようだ。あの暑かった夏の記憶も薄れている。人の時間は「今」しかないのだ。そう思った途端、車を停めて、写真を撮った。小さな、薄いスマホの中に「今」を保存しておくように。


 この樹を見ていて、思い出した歌。


    おびただしき桜の落ち葉ちり敷けるひとつひとつがその母樹を恋ふ


 中島行矢氏の第二歌集『母樹』の一首である。中島氏は、2016年の筑紫歌壇賞受賞者。受賞作『モーリタニアの蛸』から3年での第二作上梓である。男のペーソスが注目された前作。本作『母樹』においてもそれは健在。しかし、全体に作品のテーマは重く、より内省的に傾いている。定点観測的に、作者独自の視座から詠まれた作品は、日常詠でありながら、同時に社会詠にも通じている。

 飄々として、人当たりの良い優しいおじさん。中島氏に会った人はみなそう思う。でも、気を付けた方がいい。このおじさん、噛みついたら離さない、鋭い牙を持っている。『母樹』549首に、歌人中島行矢の本気を見た。

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『母樹』より

・鈍痛のごとき尿意に覚めてあふくれなゐ燃ゆる黎明のそら

・ややゆるき西条柿のむにやむにやと種を取巻くところを食ひぬ

・ことごとく死へむかひつつうつ蟬に廃墟ならむかこの世の秋は

・徘徊にゆくへ知れずになると言ふかなしむべしやその脚力を

・そののちの奮闘をたれが予想せむ茄子の苗木のしほしほと立つ

・にんげんの体温ほどの暑さといふその人間の暑さにあへぐ


 *本書「あとがき」で、本阿弥書店の池永由美子氏のご逝去を知りました。ショックです。ご冥福をお祈りいたします。



    花よりももみぢことさら身に沁みて五十六歳さくらを見上ぐ


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by minaminouozafk | 2018-11-06 08:23 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(7)


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最近、芸術家の連れ合い(妻、恋人など。婚姻関係にはないものも含む)について書く機会をいただくことが続いた。この俵万智の『牧水の恋』もその中の一冊。牧水研究家大悟法利雄氏の『若山牧水新研究』を元に、俵ならではの絶妙な「補助線」(本文259頁)を引くことで見えてくる事の経緯が滑らかな筆致で語られており、最後まで一気に読み通せる面白い評伝文学だった。

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「梧葉」(2018年秋号・通巻59号)に書評を書かせていただきました。
お読みいただけるとうれしいです。


 この「梧葉」(2018秋号・通巻59号)の最後に短く書いていることについてもう少しだけ書いておきたい。『牧水の恋』の相手、園田小枝子については、短歌に関わる方なら周知ではあろう。


 ざっくり言うと、明治39年、人妻で子どもも二人ありながら、それを隠したまま二十歳そこそこの学生であった牧水と恋に落ち、関係をもつ。一方で、小枝子の従兄弟で牧水にとっても親しい間柄の赤坂庸三と内通し(小枝子は、従兄弟庸三の東京の下宿に逗留して共棲みしていた)、父親は牧水なのか庸三なのか判然としない子を身籠りながら、それを「牧水の子」と告げて牧水を悩ませ、結果里子に出したその子は三カ月後に亡くなってしまう。その後も約一年、二人の関係は続くのだが、明治44年、小枝子の帰郷をもってこの「恋」は終焉を迎えるのだった。後日談として、小枝子は結局、牧水と並行する形で付き合っていた(世間ではこれを二股かけると言いますね)従兄弟の庸三と結婚し、数年の後、街で小枝子を見かけた牧水は「裕福な暮らしをしているようで、安堵した」と言っている。やれやれ。こんなに濃くて重い初恋があるだろうか。牧水が鯨飲したくなる気持ちもわかる。


 この五年に及ぶ交際の中で、牧水が小枝子について明らかに「おかしい」と思う場面は少なからずあったはずだ。何度求婚してものらりくらりと躱され、そうしているうちに、どこかのタイミングで小枝子にはすでに家庭があることも知ったはずなのである。しかし、二人は別れない、というか、牧水が小枝子から離れない。そんなに魅力的だったのか、小枝子。

 小枝子についての情報は多くはない。複雑な家庭に育ち、15歳で結婚。胸を病み、広島の自宅から離れて、明石の療養所に入所。神戸の赤坂家に遊びに行っていた折に、東京から来ていた牧水に出会う。牧水の一目惚れ。この恋はこの一語に尽きる。そのくらい小枝子という女性は美しかったのだ。この恋について牧水側の資料が多いのは、牧水が歌人であってその経緯を短歌にしていることが大きい。一方小枝子は文芸その他に興味がなく、文壇歌壇における牧水の存在感についても恬淡としていたという。そうした資料の偏りを考えると、小枝子の実像が摑みにくいのも当然だと思うし、判断の公正さを欠くとの思いは十分にあるのだが、それでもやはり、私には美しいという以外の小枝子の魅力がわからない。近くにいても友達にはならない。怖い。けれど、複雑な家庭に育った、胸を病む絶世の美女、言葉にすると薄っぺらいが、そんな女性が実在すれば、やはり人は心惹かれてしまうのだろう。恋とはまこと因果である。そして、そんな因果な小枝子がいなければ、あの名歌、


 幾山河越えさり去りゆかば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ


 も詠まれることはなかった。返す返すも因果である。

 本そのものはとても面白いのだが、なぜか読後に一抹の不全感……。本を閉じてしばし、世の中って不平等、そんな思いに沈んでしまうのは私だけだろうか。



  牧水の恋のてんまつ読む夜の闇は沈みぬ蜜の重さに


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by minaminouozafk | 2018-10-30 08:28 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(7)

気が付けば10月ももう第四週。もう今年が終わりそう……。

と、今年のわが身の怠惰を嘆きつつ、自らに課したタスク、「第四週は歌集紹介」をこなすことにする。

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今月は『ジャダ』藤原龍一郎(2009年・短歌研究社)。

・象徴の詩法の末裔(すえ)として生きて砂金は孔雀過ぎゆく孔雀

・芥川家の血を継ぎし猫なるかぼんやりとした不安に眠る

・高柳重信と釈迢空とならび古書肆の棚の煉獄

・かく暗き運河の水に汐は差し今宵またわが逃亡ならず

・ウタビトの前衛としてありたきを液晶画面にRAVENが鳴く

・大鎌に刈り取られゆくイメージにまた濃密となりゆく闇よ

・美しき国ぞこの国海往かば山往かば六十二回目の夏


まるで螺鈿細工のような絢なる言葉で綴られた作品の数々。けれど、そうした言葉のベクトルとは逆に、作品世界はしんと冷えた廃墟を彷彿させる。その世界の中で、墓標のように直立する藤原作品の数々。当然だろう。「朔太郎」という一連からはじまるこの一冊は、すでに亡きあまた芸術家へのオマージュなのだから。


この一冊の背後にある藤原の膨大な思索を思う。その莫大な容量を削ぎ落し、抽出された本質を細いペン先に託して綴る。クラフト・エヴィング商會による装幀の表紙カバーが美しいペンであるのも至極納得できる。このペンこそ、『ジャダ』における作者、藤原龍一郎の象徴なのだ。


『ジャダ』とは、「jazz」と「dada」を合成した単語で、1920年代に流行した言葉だという。これを歌集名に選んだ理由を藤原はこう続ける。


「1929年に大恐慌が始まり、やがて第二次世界大戦へとつながって行く。そういう危機感をはらみながらも、新しさへの志向をもった言葉として、「ジャダ」という造語を、この一巻の表題として選んでみた。」


9年前の歌集である。9年前だからこそ生まれた歌集かもしれない。Twitter全盛の、通り過ぎてゆく言葉からは決して生まれない短歌。芸術の来し方と行く末、その架橋としてある一冊、『ジャダ』はそんな印象の歌集であった。



  切り結ぶ覚悟はあるか 咽喉元にクロノスは鎌押しあてて問ふ



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9月30日、筑紫歌壇賞贈賞式に列席下さった藤原龍一郎氏。
ありがとうございました。




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by minaminouozafk | 2018-10-23 08:36 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(4)

海老原さんは、このブログ〈南の魚座短歌日乗〉の元となった、三人だけの小冊子『みなみの魚座』の立ち上げメンバーであり、棧橋から灯船でのお仲間でもある。

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海老原さんの一冊には〈ふるさと〉という暖かい空気が流れている。

温暖な宮崎という土地柄もあるのだろうが、豊かな自然に対する海老原さんの眼差しにも拠るのだろう。

・アスファルトに田の土黒く落しつつ威風堂々田植機帰る

故郷(ふるさと)と書きつつ故の字(いと)しめりいつか私に冠する一字

・音もなく冬の陽ざしは降りそそぐ田の神様(かんさあ)の欠けし鼻にも

無戸室(うつむろ)の跡をおほへる杉苔にしらじら遊ぶ土用のひかり

・しんとして海鳴りまでも聞こゆる日もうぢき馬酔木の花がひらくよ

大仕事を終えた田植機の誇らしげな様子。「故」の文字も故郷に繋がると思えばという思索。

古来より田畑を見守ってきた田の神様の欠けた鼻に降りそそぐ陽射しに大いなる自然と伝統を嘉する海老原さん気持ちが伝わる。どの歌も宮崎という土地の持つ空気感が色濃く出ている。

海老原さんの日常と心の揺れを詠んだ作品から。

・こぶし咲き馬酔木、沈丁花(ぢんちやう)匂ひ来て春は新しき靴欲しくなる

・春さきの野草おほかたアク持てば思ひ出すなりわが反抗期

・焼き茄子はぽんと弾けてしぼみたりわが拘りもそんなものかも

・機械にも機嫌よき日のあるらしく今日のミシンは軽やか軽やか

・頼まれて入学準備の手さげ縫ふ縫ひものオンチの嫁を持つ幸

・内臓を持たねば影はらくらくと折れて社の石段くだる

巻頭の一首から始動の季節への期待感と積極性にワクワクする。「反抗期」や「拘り」も軽くいなしながら前向きに暮らす様子が伝わる。裁縫がお好きなのだろう。軽やかなミシンは海老原さんそのものであり、頼まれる手提げ作りも心踊りが伝わる。「影はらくらく」からは、私はしんどいけれどというユーモアがあり、どの歌も向日性がある。

明るさは人間観察にも働いている。

・バスを待つ男のしたる大あくび夕陽がぐいと吸ひ寄せらるる

・胃袋を吐き出すほどのくしやみして男過ぎるたり真昼の団地

・失礼と声かけ来たる人ありて煙草の臭ひが先に坐りぬ

・もう誰も〈そのまんま〉とは呼ばぬかほ物産館の幟りに笑ふ

・喜劇役者ならば詮なし幕引きの「そのまんま」劇は粗末でをかし

・真正面を定位置とする男ゐていつも斜めにテレビ見るわれ

眉をひそめたくなる「大あくび」「くしやみ」「煙草の臭ひ」も海老原さんにかかるとユーモアとなり、人物像もくきやかに立ち上がる。

四、五首目は東国原劇場と呼ばれ積極的な広報活動により宮崎ブランドを定着させた手腕と、その呆気ない幕切れを詠む地元ならではの視線だが「詮なし」と明るい。

六首目はご主人だろう。長年連れ添い、安定した間柄だからこそ詠める一首。世の多くの妻たちは「うちもそう~」と共感しているだろう。

この歌集は「何かと心配をかけた父への感謝を形に」と編まれている。

父はツマベニチョウを宮崎で繁殖のための保護活動を続けられた海老原秀夫さん。この秋、百二歳になられ、コスモスにも現役で出詠され、全国のコスモス会員の励みとなっている方。

・世話になる、面倒掛ける 畏れゐし父が言ふからさびしくなりぬ

・ゆるゆると優しくなつた父とゐて海のうへ行く雲を見てをり

・百歳の(ひで)ぢいちやんは物知りで何でも教へてくれると児の言ふ

・クレアチニンの基準値きけば百歳の数値は知らぬとドクター笑ふ

私達には、いつも穏やかな微笑みを湛えたお父上のイメージしかないが、娘さんにはたいそう厳しく接し、畏れられていたようだが、現在は共に穏やかな暮らしが伝わる。

もうひとり、最大の故郷を感じさせてくれるのは母の歌

・杉の間を霧の流るるわが故郷会ふ人はみな母に繋がる

・墓標には母の名ひとつ墓の下の壺中にひとりの母の恋しき

・休み休み母が訪ひ来しこの道にまた薮つばき咲きて母亡し

・母の日の母の墓処のそのめぐりゆたかに揺るるつんつんつばな

亡くなられて二十年になり、折々訪れている母の墓所を取り囲む空気が慰藉を感じさせてくれる。

ご両親の豊かな情愛があってこその、海老原さんのふるさとを内包する一冊となったのだろう。

        ただ一度訪ひし日向にワープするまだ父母が待ちゐしころの


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by minaminouozafk | 2018-10-12 06:58 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(6)

小島ゆかりさんの第14歌集『六六魚』を読んだ。

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ついこの間『馬上』について書いたような気がするが、あれから二年。ゆかりさんの執筆ペースを考えると、ちょうどいいタイミングなのだろう。

『六六魚』は「りくりくぎょ」と読む。鯉の異名らしい。体側に36枚の鱗が一列に並んでいるからというのが由来という。


この歌集、面白いのはもう言うまでもないし、様々な角度から鑑賞できる一冊なのだが、私が一番心惹かれたのは、変容してゆく家族の姿を見つめるゆかりさんの眼差しであった。現歌壇の中心的役割を担いながら、ゆかりさんが大事にしているのは日々の暮らしの手触りである。ジェンダーに厳しい昨今、こういう発言は憚られるが、ゆかりさんは女性として受けた生を謳歌し、全うしている。幸せなことばかりではない。いや、悲しみの嵩は常人よりずっと多いかもしれない。でもゆかりさんはそれを女性ならではのしなやかさとしたたかさで越えてゆく。そしてそのたびに歌は肥え、雑駁に豊かになってゆくのだ。


・病む母を時間の谷に置くごとくいくつもの秋の旅を行くなり

・世の中によくあることがわが家にも起きて驚く鳩の家族は

・あぢさゐはぎつしりみつしり咲(ひら)くゆゑ母たちの愛のやうで怖ろし

・人は死に血は混じり合ひ 雨あとのあざみのやうに家族鮮(あたら)し

・海のをんなは海の呼吸で山のをんなは山の呼吸で子を生むならん

・母といふこのうへもなきさびしさはどこにでも咲くおほばこの花

・四世代容(い)れれば入(はひ)る破れさうで破れない古い巾着わたし

・赤子泣くそこは世界の中心でそこは世界の片隅である

・まだ棄てぬ臍の緒ふたつ ゆふかぜに枯蟷螂はあゆみはじめぬ

・ゆく夏の母のわたしは油蟬、祖母のわたしは蜩(ひぐらし)ならん

・亀しづみ蜻蛉とび去り秋天下われがもつとも難題である

・新年にわらわら集ふもののうちわたしはだれを生んだのだらう

・母となり祖母となりあそぶ春の日の結んで開いてもうすぐひぐれ


20年前、私は「小島ゆかり論」を書いた。それはとても稚拙な一篇であったと自覚しているが、その中で、小島ゆかりという歌人は少女から聖母になったような人だと書いた記憶がある。そんな人がこの先、歌人としてどのように変容してゆくのか、当時とても興味があったのだが、この『六六魚』には二十年前のその問いの答えがあるような気がしている。


急流に逆らい、くきくきと身を捩り泳ぐ鯉。水流に鍛えられたその身はみっちりと締り、輝く鱗に覆われている。これは華甲を過ぎたゆかりさんのイメージ。豊饒で強い。そしてこの鯉はさらに高みを目指す。六六魚の行方を見逃してはならない。物語はまだまだ続くのだ。



わうごんの鱗かがやく六六魚登竜門を登らむとして


*ゆかりさん、平成三十年「短歌研究賞」ご受賞おめでとうございます。



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by minaminouozafk | 2018-09-25 01:04 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(7)

『愛×数学×短歌』(横山明日希編著・河出書房新社)を読んだ。

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夏休み、帰省していた娘が、大学の地下食堂コミュニティの先輩の「愛の短歌」が本に載るらしいと言っていたので買ってみたのだった。

数学好きの男子高校生と短歌を詠む女子高生の交際の過程を、公募した「数学短歌」によって描くという企画もの。Twitterで話題になった「愛と数学の短歌コンテスト」を書籍化したものだとか。なかなか面白そう。


気になった作品を引いてみる。

・ベクトルの定義によれば「方向と大きさを持つ」つまり恋だな  泳二

  ベクトルとは恋であったのか。なるほど。

・平行線1°動けば交差するだから私も一歩踏み出す  ごまだれ

  平行という概念を的確に使って躍動感を生じさせている。

・あと半分あと半分と少しずつ想いを寄せても届かないんだ  横山明日希

  数学的に言うと、全体を1として、1/2+1/4+1/8+1/16…という近づき方をした場合、無限に加算してゆけば1になるが、人生は有限なので1には至らないのだそうだ。深い。

・背理法あなたの心を知りたいが仮定もできない私は臆病  panaffy

  「背理法」とは「~ではなかったなら」と逆の仮定をした矛盾を浮き彫りにする方法。数学の解法であれば当たり前に使えるのに。

・アイという見えないものを認めると世界は少し美しくなった  水宮うみ

  アイとは虚数i。もちろん「愛」を掛けている。

・赤い糸任意の曲線引けるならあなたのそばに1つの点を  横山明日希

  数学的には点も曲線なのだとか。短歌的には「1つの点」は「私」の寓意でしょう。

・何気ない午後五時二十九分も君と夕日を見たら特別  黒澤興

  午後5時29分は1729。これは、数学者ラマヌジャンが見つけた「タクシー数」なんだとか。数字に意味を見出すと限りがない。

・誕生日あなたとわたし婚約数だからあなたは運命の人  ルナ

  占いではなく、数学的婚約数で運命をはかる。そうきたか。

・あなたへの裂ける想いの証明に時の余白は足りなさすぎて  安藤もゆり

  「時の余白」という詩的フレーズは「フェルマーの最終定理」という360年解かれなかった問題を残す際に余白に書き入れた言葉。数学者は詩人だ。

・昨日より明日はもっと好きだからもう友達には収束できない  五十嵐

  「収束」も数学用語。ある状態に限りなく近づくこと。そうですか、友達には戻れないんですね。

・今君が僕を好きなら帰納法あと一秒だけ好きでいてくれ  unityむーさん

  「帰納法」とは、前見た鴉が黒かった、その前も黒かった、だから次に見る鴉も黒いだろうとする推測。あと一秒好きでいてくれたら、帰納法的には永遠となるかと言えばそうでないとわかっているところがなかなか辛い。

・正と負を二度間違えて正解に至ったような不器用な恋  物部理科乃

  マイナス×マイナス=プラス。この謎は「後ろ向き」で「後ろに歩く」と「前に進む」と思うと理解できるらしい。わかるけど、確かに不器用だ。

・遠恋の距離を求める公式は切なさかける会えない時間  y0k0t0m0

  なるほど。

・十三の次の素数は十七と十九の頃の恋のあとさき  四ツ谷龍

  素数好きは多い。こんな風に詩になる不思議。結句が効いている。

・5も7も31も素数より詩人の想い無限に溢(あふ)る  鰤

  これも素数。短歌は素数の複合体だったなんて。新鮮。


本書は1ページ1首構成。作品ごとに編者横山明日希氏の解説が付記されている。鑑賞のための数学的知識が端的に書かれていて、それもまた面白い。


数学と短歌のコラボがどういう形で成立するのだろうと思っていたが、非常に詩的に仕上がっていたことに驚いた。

しかし、考えてみればそうであろう。数学とは、特に純粋数学は、俗世の不純物を除いたところに立脚し、思考を進める。実在しないものに憧れ、追い求めるのは詩の創造と根を一にするものだ。数学を美しいと言い、哲学に通じると言うのはおそらくそのためだろう。


永田和宏、坂井修一など、言うまでもなく現代歌壇には優れた理系歌人が多い。恋というカオスを前に、定理や公式であざやかな解を求めようとしながら、その途上で生まれる矛盾に傷つき、立ち止まる理系男女の姿にこころ惹かれる。どうか彼ら、彼女らのこれからにずっと短歌がありますように。


  数学が得意だつたら 仮定法そこに広がるわが生茫漠


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by minaminouozafk | 2018-08-28 09:18 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(7)

「短歌」八月号を読んだ。

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まず、巻頭詠、高野さんの「こもれび」28首からご紹介。

〇無数なるいのち養ふこの星のオーラのごとし夕あかね空

〇やはらかな大和の歌のひらがなのやうな息してねむるみどりご

〇いかフライうまいねといふ呟きの低くひびきて一人の夕餉

〇まひる咲くアガパンサスの花々を風揺りて空はひかりの(さざなみ)

〇日のひかりこまかにゆるるしづけさをこもれびと呼ぶやまとことの葉

〇人ら行きその影ゆけり街なかの暗渠のうへの普通の歩道

〇備ヘアレバ 格言一つ思ひ出し二、三歩ゆくに人生茫々

言葉に角がなく、まろやかで一読後すとんと胸に落ちて来る感じ。韻律がなめらかなので覚えやすく、誦しやすい。豊饒。

他には、金子兜太氏への挽歌一連、そこから展開される政治への不信を詠んだ作品など、闘う高野氏の姿もいい。


続いて、松尾祥子さんの「穴」7首から。

〇極東の島に穴掘り永久に核廃棄物処理する話

〇地下深く核廃棄物埋めし島巨大地震に沈みゆくかも

恐ろしいたとえばなしが、恐ろしい現実としてすぐ横にあることを思い知らされる。怖い。


今号の特集は2本。

1. ふと立ち止まって—歌を鍛える推敲のポイント

・まず何を歌うか…中津昌子

・定型を守る…林和清

・語順を考える…安田純生

・観念より具体を…さいとうなおこ

・説明臭…藤原龍一郎

・自分の言葉で…佐藤弓生

・常識の範囲で…中根誠

・助詞を入れる・省く…小林幸子

・言葉の整理を…小塩拓哉

・辞書にあたる…村山美恵子

・表記にも神経を遣う…千々和久幸

・声に出して読む…寺尾登志子

作歌するの上で重要な推敲。一首がなんとなく立ち上がってからの方が実は大切だとわかってはいても、では具体的に何をすればいいのかわからない…という人のために最適な特集。執筆歌人の推敲の経緯がわかって面白い。


2. 創刊120年「心の花」の女性歌人たち

古谷智子氏が「思索的ロマンの系譜」として柳原白蓮・片山廣子・村岡花子を、佐伯裕子氏が「モダニスト斎藤史と「心の花」」を、谷岡亜紀氏が「「心の花」を支えて」というテーマで「心の花」の妻たちを、佐佐木定綱氏が「人と今」という切り口の「俵万智」論を執筆している。女性歌人にフォーカスした点が面白かった。

また、大口玲子、清水あかね、駒田晶子、佐藤モニカの四氏による座談会も結社内部の気息が伝わり興味深かった。


酒井順子氏による連載の平安の女ともだち」は和泉式部(2)。盤石の面白さ。

もうちょっと読んでおこう。



「推敲のポイント」なるを耽読す逆走台風荒るるまひるま



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こっそり書いてます。

 


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by minaminouozafk | 2018-07-31 08:17 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(6)

水原紫苑の第九歌集『えぴすとれー』を読んだ。2015年4月から2017年6月までの作品746首を収める。

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本阿弥書店刊

葛原妙子、山中智恵子に魅かれ、春日井建に師事。作品を読むにあたって、作者独自の読みのコードが必要なのがこの三巨頭。しかし、それ以上に鑑賞に悩むのが、件の水原紫苑である。水原作品の鑑賞の手引きとしては、「コスモス」2014年1月号「新・評論の場」に小島なおさんが「蝙蝠傘の一人」という優れた評論を書いている。結論部分を引用する。


・『びあんか』、『うたうら』、『客人』と、歌集を重ねるごとに歌の難解さは増してゆく。それはすなわち、水原が現世における肉体よりも魂を、真実の自分と確信してゆく過程である。現実と幻の狭間で葛藤していた魂はやがて、歌において肉体を捨て、過去や未来、幻の世で知覚したものを思うままに歌うようになる。水原の作品のまなざしが、わたしたちに美しく残酷な印象を与えるのは、ほかの誰にも永久に共有されることがなく、肉体の死を迎えるまで報われることのない深い孤独を内包する魂の歌であるためだ。


水原作品の世界観を十全に表現した鑑賞である。なおさんのこの手引きに従って、本作『えぴすとれー』を読み進めてみた。「ほかの誰にも永久に共有されることがなく、肉体の死を迎えるまで報われることのない深い孤独を内包する魂の歌」とはどういうものなのか、考えてみたくなったのだ。

746首とは大著である。そして面白い。しかし、作品を「共有」できているのかと問われると自信がない。いや、何段階かのレベルに分けられるというべきか。

たとえば、


P9  十六歳のわれはそびらに巣をつくり白鷺を呼ぶ京の白鷺

P36 快楽(けらく)もて神の創りしあかしにぞゴキブリの(せな)かがやくものを

 

これらは多分入門編。雅やかなものに憧れやまなかった16歳の心や、てらてら光るゴキブリの背に創造主の遊び心を感じるという作品。


P11 ミッションを遂げたる花や(みづ)(あくた)ながれてわれもかくあらましを

P79 ひさかたの光病みぬる夕まぐれ六道の辻に硝子ひさがむ


この辺は初級編。咲き切って水面に浮かぶ桜の花びらになりたいと願う作者。また光が衰えた夕暮れ、薄暗さは六道を連想させ、そこで硝子を売る自分を描写してみる。シュールだが、わかる。


P57 雪待てば小町来にけり永遠の未通女ブラックマターを抱け

P256 虹のいのち橋のいのちを生くるため 手弱女(たをやめ)ほろび千の(つぼ)ひらく


こうなると、中~上級編。わからない。でも不思議なことにイメージはできる。像を結ぶのだ。

これはどういうことなのか。


P29  われは笛、われはくちなは、われは空 死の後水の夢とならむか

P21 瀧斬らむクーデターなれ瀧斬らば三千世界(いし)とならむを

P88 異類婚・同性婚の犬妻と過ぐす夜黄金(くがね)も玉も何せむ


集中、このような作品が散見される。これはなおさんの言う「歌において肉体を捨て、過去や未来、幻の世で知覚したものを思うままに歌うようにな」った水原の姿なのではないだろうか。笛にも、蛇にも、空にも、水の夢にさえ変化し、異類婚、同性婚も厭わない。瀧とは、おそらく自身の投影。他にも魚、しらほね、石などが投影の対象として頻出する。


肉体を持たない水原の感覚器は剝きだしである。ロゴスを超越した圧倒的なパトス。神託のように降ってくる言葉をほとばしるパトスに賦与するのが水原の作歌なのだ。その言葉とパトスの対応は万人に理解可能なものではない。しかし、水原の内部では、その両者は必然的に分かちがたく存在する。その必然が、一首の意味は不可解ながら、抗がい難い魅力となって立ち上がるのだ。


「えぴすとれー」はギリシア語で「手紙」。難解な手紙をもらってしまったものだ。生涯かけて読み解くほかあるまい。



  むらさきの花に似る名のハルシオン熟寝の床に播くひとつぶは




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by minaminouozafk | 2018-07-24 02:09 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(5)