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カテゴリ:歌誌・歌集紹介( 60 )

先々週、今年の筑紫歌壇賞受賞作品が、中村敬子さんの『幸ひ人』に決定したことをお知らせしました。923日に行われる贈賞式には、みなさま、ぜひご参加くださいませ。



 今日は受賞作『幸ひ人』のご紹介を少々。本作については「コスモス」201812月号批評特集の中に「歳月と青空」と題して、朝比奈美子さんが、また、20192月発行の「灯船」第12号には「逡巡の軌跡として」と題して、魚座チーム土曜日担当のユリユリこと栗山由利さんが、それぞれ的確な批評を書いている。二人の批評を読んでいただければ、正直もう私が書くことは何もないのだが、この素晴らしい一冊を読ませていただいた感想を、少しだけ書いておきたいと思う。


 ・ないものをさがす寂しさゆらゆらとグラジオラスの螺旋階段

 巻頭の一首。巻頭作品はその一冊に通底するテーマを暗示する。螺旋状に咲き上るグラジオラスの花の揺れに「ないものをさが」している自らの「寂しさ」を見出す作者。以下、穏やかな韻律に内包された悲しみが、照り翳りしつつ詠まれている。


 ・ゆふぐれは白い兎が胸にゐてさささ、そそそと干し草をかむ

 ・垣こえて子らと子犬が球根をほじくり返した冬があつたよ

 ・一本の水平線を描くたびにとちゆうで折れる僕のシャーペン

 ・新雪に足おろすごと新しい手帳にしるすわたしの名前

 一見ささやかな暮らしの一場面を掬っているようだが、ここには言語化されない孤独、悲しみの余韻がある。こういう作品の背後には、作者をこのような気持ちにさせた「事実」があるはずなのだが、その具体が詠まれることはない。全編を通じて、柔らかな印象の歌集であるが、それ以上に、自らの境涯に読者を巻き込むことをせず、あくまでも作品として屹立させていこうという作者の意志が潔い。


 ・噴水の照り翳りつつ 考へる(いかなる幸ひ人の)くだりを

 本歌集にはタイトル『幸ひ人』 の由来となった作品が二首ある。前半に登場するのがこちら。『源氏物語』「浮舟」を典拠にした一首。


  いかなる幸ひ人の、さすがに心細くてゐたまへるならむ……

 「どんなお幸せな方が、と(周囲はさまざまに申しましょうがその御方ご自身は、薫大将の思い人というだけのお立場では)さぞかし心細くていらっしゃることでしょう……」


 光源氏亡き後の物語「宇治十帖」で繰り広げられる、薫、匂宮、大君、中君、そして浮舟の恋のさや当て。複雑なその経緯の中で、ことに意志を持たず、ただただ運命に翻弄されるのが浮舟である。上記の引用部分に登場する「幸ひ人」は浮舟を指しているのだが、薫の囲われ者として生きることが果たして幸いなのか、作者はそこで立ち止まったのだ。

 幸せとは何か。とくに女性の場合、その答えは難しい。浮舟のように、自らの意志をもたず、受動的に運命を受け入れて大いなる庇護の下生きていくのが幸せという、源氏の昔の価値観から、私たちはどれほど遠くに来ることができただろうか。


 ・あたたかく砂糖のとけた牛乳にとてもかなはぬ一日だつた

 ・保冷剤生ぬるくなればやはらかし今一度子を孕みたくなる

 ・復刻版LPレコード売る店のオーナーになる、いつかなりたし

 ・逆上がり出来るだらうか鉄棒の錆のにほひを握りしめつつ

 時系列に沿った編集とは限らないが、「幸ひ人」の歌以降、作者は能動的に人生の歩を進める。


 ・歳月のとある季節は色鉛筆ぶちまけたやうであつたよ 家族

 簡単ではなかった過去のある時期。それをかくもあざやかな比喩によって読者に差し出す作者。折り合いがついたのだろう。作者は確実に未来に向かって歩き続けている。


 ・「もうかえれ」ほつりと母が呟くはをんなが厨に立つ時刻なり

 ・空き家とは空へ貸す家ほつこりと雲が二階でくつろいでゐる

 ・〈母〉の字を〈妣〉に書きかへてひらがなの〈はは〉とちいさくルビをふり

たり

 その後も、東日本大震災による故郷の被災、母上のご逝去、と実生活上の悲苦が作者を襲う。


 ・意味のなきことには零の意味がある蟬しぐれ聞く君の声聞く

 しかし作者は揺るがない。人生に意味のないことはない、それをもう知っているから。


 ・本を閉ぢ草木うるほふ雨後の町へ犬をつれだす幸ひ人われ


 巻末近くに置かれた二つ目の「幸ひ人」。ここで閉じられた本は多分、「浮舟」。作者は長い長い読書ののち、自身の幸せを確信する。雨後の町へ踏み出す一歩。それは作者、中村敬子さんの歌人としての輝かしい一歩でもある。

 中村さん、第16回筑紫歌壇賞ご受賞、おめでとうございます。



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   邂逅はヒガンバナ咲く長月の太宰府 幸ひ人をひた待つ


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贈賞式のご案内。
ぜひご参加ください。





by minaminouozafk | 2019-06-18 10:03 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(6)

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 コスモスのお仲間であり、棧橋時代から親しくしていただいて、福岡灯船批評会後の伊万里もご一緒し、灯船静岡批評会では全面的にお世話になった頼りがいのあるわれらが〈雅子ねえさん〉である。

歌集は茨城で31年間勤めた教師を辞める少し前から始まる。その後、自然豊かな静岡県島田市に転居をし、そこには実母と義母の老いと介護が介在するなか、新しい人生を謳歌する様子が伸び伸びと詠まれる。(交差する思いを伝えたくて今回、頁数をいれました)

少し前に、このブログで早苗さんが「憂国の思い」が色濃く出た三冊の歌集を紹介されたが、この歌集も同じ思いが根底に流れる一冊である。

 コスモスで次々と発表されるキレの良い社会詠を毎回楽しみにしていたのだが、一冊にまとめられた時、改めて小田部さんの社会に対し弱者に向けられる愛と懐の深さを感じたのだった。

 先ずは、教師時代の作品から。

  病む猫をおいて勤めにゆく道にふとわかる 悲しみが恋に似ること 21

  黙々とはたらく人と悠々となまける人とありこの職場 26

  大きなるいぢめつこひとりよく見ればいぢめられつこの顔をしてゐる 29

  元気なこと明るいことが無条件に善なりし良き時代は過ぎつ 30

  俺たちを捨てていくんだね先生は さうだよ君らを捨てて生きるの 52

  ころころと話題のかはる隣席の少女よ何から逃げているのか 61

 愛猫家の小田部さんである。傍にいられない切なさはまた恋に通じるという発見。262930頁、職場である学校では冷静に周囲をみて、時代を憂いている。そして52頁、退職に至るのだが、諸々の思いは置いて、前を向こうとする姿とともに、結句の優しい口調に止むに止まれぬ思いがこもる。

 61頁の歌は退職後の日常のひとこまだが、たまたま耳に入る会話から少女を見つめる優しさは教師時代の先生のまなざしであるのだろう。

 そして、転居後の静岡での自然との交歓。

  さびしさは樹の形してゐたりけり夕風のなか(かは)(やなぎ)立つ 55

  吐く息も吸ふ息も自分だけ駿河の国の花野を行けり 56

  小春日の川面のひかり頬にゆれしづかよ人も言葉もいらぬ 57

  石ころの広き河原のあたたかさ旅の途中の鳥も降り来よ 57

 教師を辞められ、新天地の自然に迎え入れられるひとりの時間。そこには一抹の寂しさもあるのだろうが、雄大な自然に心を寄せ同化してゆく姿に、読者である私も心地良くほぐされて行く。

  シュプレヒコール窓に聞こゆる四畳半下宿にこもり恋におちてた 67

  あかつきの闇にねむれるかたはらの男の憂ひ知りゐて問はず 67

  ほんたうは夫をわからずわからぬまま毛布でくるむやうにあいする 113

 多くは詠まれていないが、十二年間単身赴任での別居生活をされていたご主人への思いは長い年月をへて培われてきたものであり、同志と呼べる関係であることが伝わる。

 二人の母を詠む。

  〈二度(にど)童子(わらし)〉とよぶには(つよ)き母の自我しかられてまた聞かぬふりする69

もろもろの不安は言はず朝明けの海にむかひてははは煙草吸ふ88

怒りやすき時を過ぎきてしづかなる時に入りたり母の人生111

関東は雪か ちいさき古家の畳はつめたからんよはは114

さみしいか故郷はなれて来しははのおしゃべりおしやべり止むことがなし123

ほつとする気持ちが先でははの死をどう悲しめばいいのか分からず144

また来るね手を握るとき母さんの手ぢから、かつて百姓だつた手156

死の際に母性かへりてわが頭撫でくれし手の骨はいづれぞ164

流木の小枝拾へば軽きかな母有らぬ世に寄する海波174

 実母を〈母〉義母を〈はは〉と詠み分けることにより、(歌集では〈はは〉には圏点が付いていますがブログでは入りませんでした。ごめんなさい)読者も分かりやすく且つ、微妙な感情の差異をも感じさせる巧みな表記使いである。しかし詠まれる内容はそれぞれの母の現在を的確に伝え、客観的ながらもさみしさを内包する思いやりに溢れる。

 114頁と123頁の間には東日本大震災が発生し、茨城に住む義母を〈スープの冷めない距離〉に呼び寄せ、お世話をされることとなる。離れて暮らす母は一〇四歳でご逝去されるが、そのとき〈兄黙し姉泣きじやくり看てきたる乙の姉泣かず それを見てゐる〉と冷静に詠まれるが、144頁の義母の最後の看取りの気持ちは母を直接介護された「乙の姉」と同じ気持ちなのだろう。献身的に尽くされたからこその空白感である。

 最後になったが、歌集の中で核ともいえる社会をみつめる作品。

  信仰に消えたる二十余のいのち 用意なきまま六千のいのち 18

  アラブのこと識りたきわれにどの局もビル崩壊のシーンばかり見す 19

巻頭近くのアメリカ同時多発テロ事件に関する連作から。事件そのものの衝撃だけでなく、加害者被害者を越えた命に目を向け、実行犯たちの出身地であるアラブの背景にまで目を向けようとしている。

折々に、政治、経済に者申す姿勢を貫かれているのだが、東日本大震災から、その思いが強くなってゆく。

 「瓦礫」とは呼ぶなよ日々の起き伏しの体と心依りたるモノを119

 原発がなくても越せた二〇一二年夏、マスコミはそれを言はない127

 原発を売るにんげんの舌が言ふ〈美しい日本〉誰が信ずる131

想定避難者九十六万人〈避難〉とは日々の暮しを捨てさせること142

 震災と原発に関する作品を挙げたが、どの歌も生半可な同情や悲しみではなく、震災に絡む政治不信、マスコミ不信イコール弱者への深い思いやりがあってのことである。その思いはこんな歌にも表れる。

  九州の物みな集ふ大宰府は足りてゐにけん旅人(たびと)の酒も128

 棧橋時代に太宰府を訪ねた折の作だが、憶良の地方を詠まれた「貧窮問答歌」を思えば、今話題の「旅人」も権力者側としてばっさりと切り、爽快。

 集中には、折句96首や隠し題、足尾銅山事件を取り上げた連作など読み応えのある一冊である。

2017年コスモス賞を受賞された年も本当に多くの秀逸な社会詠を詠まれていた。あとがきに「後半でしばしばカリカリと怒っていました。そういうものはかなり捨てました」とあり、歌集に登場しない作も多く残念であったが、弱者側としては心地よい「カリカリ」であった。今後も社会のゆがみを発信し続け、世間に骨太の喝を入れ続けて頂きたいと切に願っています。

       せせらぎのながれに憩ひ洗はれる石となりゆくやうな一冊


by minaminouozafk | 2019-05-31 06:30 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(6)

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日曜日の晶子さんの記事を読んで、ずいぶん歌集について書いてなかったことに気づく。そこで今日は三冊。


 『石蓮花』  吉川宏志 (書肆侃々房)

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1時雨降る比叡に淡き陽は射せり常なるものはつねに変わりゆく

2パスワード******と映りいてその花の名は我のみが知る

3旅はたぶん窓の近くに座りたくなること 山に(つわ)(ぶき)光る

4亡き人を知らざる人に語りつつ青菜は鍋に平たくなりぬ

5リュウグウノツカイが棲んでいるような春の空なり尾びれゆらして

6アメリカから剝ぐことのできぬ爪として日本はあり (いくさ)近づく


 511日の福岡支部出前歌会にお招きした大松達知さんが、ミニ講座の資料としてご紹介下さった一冊。大松さんのリードに従って再読。なるほど、見えてくるものがたくさん。

 永遠であるためには恒常的な変化が必要なのだということをリフレイン(「賞を獲りたかったらリフレイン」by大松氏)によってなめらかに伝える1番。アスタリスクの伏字に隠されたパスワードを「その花の名」と呼ぶ自在な2番。旅を独特な定義でくくる3番。「亡き人」の話をする作者とそれを聴く人々に流れる時間を「青菜が鍋に平たくな」ると譬える4番。リュウグウノツカイの存在が空の広さを語る5番。「尾びれ」に躍動感がある。6番の「剝ぐことのできぬ爪」には日本の逼塞してゆく現状が的確に表現されている。

 あまりにもさりげなく詠まれているので、見過ごされがちだが、吉川作品にあるレトリックは実はけっこう前衛的だ。それをきわめてナチュラルに一首の中に取り込んでしまうのが吉川の力量なのだ。


 『歓待』  川野里子 (砂子屋書房)

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1延命処置断るはうへゆれながら傾く天秤 疲労のゆゑに

倶会一処(くゑいっしょ) 死ねば居場所のある母か赤い椿がつくづくと見る

3雪降つたね餅を搗いたね笑つたね遠いところへ行つてしまふね

4ああそこに母を座らせ置き去りにしてよきやうな春、石舞台

5神の手が初めて創りし泥人形のやうなれど吾に手を伸ばしくる


 前作『硝子の島』で長く母上の遠距離介護を続けていることを詠んだ川野。本歌集においても母は重要なテーマとなっている。人生百年を謳いながら、その長寿を支える公的福祉は事実上破綻しているこの国。これが過渡期なのか、このまま奈落へ突き進むのかは定かではないが、自身も加齢をしてゆく中で親の老いを、死を、個人が引き受けねばならない苦渋が滲む。

 歌集名『歓待』は、「次第に狭量になってゆく世界で、枯れ枝のような一人の老人は、小さな献身の連続によって温められ、尊い命となることができた。それは何という命への歓待であったことか。この歓待こそ時代への抗いなのだ。」(あとがき)という、母上を介護してくれた方々への川野の思いに由来する。一つの命に誠実に向き合ったからこそ舐めねばならなかった辛酸ではあるが、そこに差すひとすじの光の存在を肯う歌集名に慰められた。


 『光のアラベスク』  松村由利子 (砂子屋書房)

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1この世あまねく覆われゆかん粘りつくポピュリズムという暗愚の糸に

2にっぽんに夢多からず『赤毛のアン』のふるさと目指すツアー廃れず

3欠けてゆく欠けてゆくああ満ちてくる自ら太る女の肝胆

4詩を問われ詩人は答う「一滴の血も流さずに世を変えるもの」

5世界中の人が使えば地球ひとつ終わる温水洗浄便座

6インド製ユニクロのシャツのほつれ糸手繰れば今日も少女売られる


 松村は「かりん」所属の歌人。福岡市出身(娘の小学校の先輩で、夫の高校、大学の後輩というご縁が嬉しい)。新聞記者を経て、現在は沖縄の離島に暮らす。外縁と見えるところに居住しながら、いや、するゆえか、歌人の批評眼は近年、より一層鋭さを増している。

 「ポピュリズムという暗愚の糸」が覆い隠そうとするものは何なのかを問う1番。もう夢を見ることもかなわないこの国の現状から目を逸らす人々を詠んだ2番。自然へ回帰した暮らしの中で豊かに太る女性の本能を詠んだ3番。詩を生業とするもの同士の共鳴が感受される4番。「温水洗浄便座」、「インド製ユニクロのシャツ」が実は世界の綻びに繋がっているのだというミクロからマクロへの視点の転換鮮やかな56番。

 知的レトリックの見事さは言うまでもないが、南島に移住して以降の松村作品には屈強な体力を感じる。心身一如、南島が松村に与えたものの大きさを思う。


 三冊の歌集、どれも作者の個性の際立つ作品であった。三冊に共通するのは、憂国の思い。それは社会詠にも通じるのだが、社会詠としてしまうと取りこぼしてしまうものをこまやかに、あくまでも自分というフィルターを通して丁寧に詠んでいる。



   瞠いてつぶさにぞ見よいうきうと呼ばれしものの崩れゆくさま




by minaminouozafk | 2019-05-21 09:32 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(7)

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 江﨑昌子さんから歌集を頂いた。江﨑さんは私たちと同じコスモスの会員で既に二冊の歌集を出されていて「橋の裏側」は第三歌集になる。毎年柳川で催される白秋祭の歌会に行くと、受付でにこやかに迎えて下さる方だ。数年前にはコスモス福岡支部歌会にも参加されていた。コスモスで歌を詠み続けられ欠詠なく52年出詠されてきた私たちの大先輩だ。
 江﨑さんの歌には特徴がある。

 先ずできごとではなく物を詠んだ歌が多い。

 確実に充ちゆくものの力もて葉陰に椿の珠美うつくし
 ちちのみの父の太声伝へくる闇の中なる黒き電話機
 三尺の扁平(うすら)しろがね太刀魚の躰横たはる氷の上に

風吹けば楠の葉に鳴る風音のここより道は下りとなれり
 ここよりは落つるほかなくがうがうと滝になりつつ落ちてゆく水

またリフレインが多い。

 石段の五段のあれば幼子は五段に遊ぶ登りて降りて
 当たり前のつづきのけふの当たり前しらしらとして夜の明けゆく
 河馬であることの臭ひのひしひしと河馬がゆつくり歩みてきたり
 白き石白く濡らして黒き石黒く濡らして雨の降りつぐ
 人間が人間らしくあることの二足歩行の老いてあやふし

声に出して読むとリズム感があり、心地良い。

先週末に大松達知さんを迎えて催したコスモス福岡支部の講師出前歌会での大松さんの仰った、「一首のなかに意味を減らすと良い」、「リフレインを使うとリズムができて韻律が良くなる」とまさしく一致した詠み方だった。

 江﨑さんの歌には批評性のあるものも多い。
 

被爆とふ語がひつそりと字引の中に座りてゐたり
 携帯電話(ケータイ)を持つ人増えて待つといふ思ひいつしか淡くなりゆく 
 象形の文字(もんじ)「女」と形成の文字「男」との違ひを思ふ

女運わろきをのこの考へし姦(わろ)しといふ字か見てゐて思ふ
 核ボタンのブラックボックスを霊長類ヒトは提げゆくネクタイ締めて
  朽ちること許されぬものしろじろとポリスチレンは海を漂ふ  

 この批評性の基には〈われらとぞひとつ括りにスクラムをくみたることのあはれ遠き日〉とある、たぶん60年安保闘争の体験があるのだろうと憶測する。
 
 批評性と同時に物をとらえる眼の力にも独特のものがある。
 
 濡れてゐる路面と濡れてゐぬ路面時雨のゆきし後に残れり
 電燈の紐と火災報知器の紐と二本が垂れて夜なり
 部屋の上に部屋が重なりその上に部屋が重なりマンション立てり

嗚呼!と思う。

 ところであとがきを読んで衝撃を受けた。


  「癌」です。いきなりの宣言。そういうことかと妙になっとくしている自分がいま
   した。      
 それでこの歌集の上梓を思ったとある。この歌集にまとめられた歌が詠まれた期間には妹さん、ご主人が亡くなられている。さらにこの癌宣告、どんなにお辛かったことか。しかし江さんはそんな体験を辛い、寂しいなどと言う言葉をつかわず詠まれている。
 

 白骨(しらほね)の熱きを拾へり妹の一生(ひとよ)を畢へし熱き白骨
 自らに決断をして自らに襁褓をせんと夫言ひ出でき 

夜が来て朝が来てまた夜が来て命熄みたり夫の命が
 ケイタイの待ち受け画面に一文字に口を閉ざして亡き夫がゐる

このような歌を読むとき江さんは本当に強い人なのだと思う。
わたくしの賞味期限は過ぎたれど消費期限はまだまだ、まだです〉この歌のとおり、癌から快癒され、
まだまだたくさんの個性的な歌を読ませていただきたいと心から願っている。江さんにエールをお送りする。


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ものごとの本質捉へるまなこ欲しいつもはづしてばかりのわれは







by minaminouozafk | 2019-05-19 07:00 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(6)

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新しい元号が「令和」と決まった佳き日(4月1日)に、この記事を書ける幸せを感じている。「令和」、ちょっと懐古的で、雅な語感の新元号。出典が『万葉集』巻五、梅花の歌三十二首の序文「時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」であることを知っていたく納得した。しかしながら、この序文のさらなる出典は、中国の詩文集『文選』(530年頃)ではないか、という意見も有識者から出てきている。出典を正しく記すことは、先人に対する畏敬を表することであり、学問を尊重することである。決して軽んじてはならないことなのだ。

 と、いうように出典の大切さをあらためて、私に教えてくれたのが、本書『斎藤茂吉研究」-詩法におけるニーチェの影響ー』の著者、前田知津子氏なのだが、ここで知る人ぞ知る、重大な事実を発表。

前田知津子氏って、実は、ちづりんだから。
つまり、歌人有川知津子だから。

 そう、われわれ「南の魚座」の巫女、実務の要、精神的支柱と、あらゆる意味で頼りにしているちづりんは、実は九州大学大学院比較社会文化学府日本社会文化専攻博士後期課程の単位を修得した、比較社会文化博士なのである。ちづりんのすごいところは、それを社会人になってから成し遂げたこと。元々は理系の薬剤師。しかし、ある時期、人を救うのは薬ではなく、芸術だと痛感させられることがあり、そこからこの道に進む決心をしたのだという。以来、長きにわたり、有川さん(落ち着かないけど、こう呼ばせていただきます)の精進の毎日が続いたのだった。

 当ブログ、水曜日の担当は有川さん。コンパクトで、しかも核心を衝いた独特の文体で読ませてくれる。白秋、茂吉、鷗外……、いわゆる巨匠を扱っても既視感のないオリジナリティ溢れる記事に仕上げてくる。その手腕にいつも驚かされていたのだが、なるほど、これは地力が違う。その短文をものする背後には、膨大な知の集積が存在していたわけである。

 さて、本書『斎藤茂吉研究ー詩法におけるニーチェの影響ー』であるが、研究叢書にありがちな、専門性が高いがゆえの表現の難解さが全くない。確かに膨大な資料を正確に扱おうとするために生じる回避不可避な手続きはあるけれど、それすら論の信頼性を高めている。今、私はようやく序章を読み終わり、(禁じ手だけども(笑))結章を読んで、「第一章 写生説の形成ーニーチェの芸術観の関与ー」に入ったところ。届いて四日でこれしか進んでいないのは、情報が盛り沢山だから。せっかく咀嚼しやすい文章で書いてもらっているのだからしっかり味わわないと……と、せっかちな私にはめずらしくゆっくり読ませていただいている。序章から、ちょっとだけ引用させていただく。

 ・本研究は、諸家の研究を踏まえつつ、茂吉における西洋という観点から、もっとも茂吉の精神的比率を占めた思想家ニーチェ(Nietzsche,Friedrich,Wilhelm 1844-1900)に照準を定め、その受容のあり方、すなわち茂吉においてはニーチェがどのように現れてくるのかを考究するものである。具体的には、茂吉の書いたものからニーチェに関わる文章や語句を抽出し、それを端緒として考察を進める。記されたニーチェの名前やニーチェに由来する用語こそ、「共鳴」の端的な痕跡であろう。(序章・6頁)

 この〈「共鳴」の端的な痕跡〉探しの旅は、多分、今でも続いている。究めれば究めるほど、開けてくる新しい荒野。儚げな、永遠の少女という外貌からは想像できない、ちづりん有川(有川さん、という呼称をここであきらめた(笑))こと、比較社会文化博士前田知津子氏の強靭な知の体力を感じた一冊、それが本書『斎藤茂吉研究ー詩法におけるニーチェの影響ー』であった。

*言わずもがな、ではあるが、本書は九大叢書。これは厳正な審査を通過した本にしか与えられない処遇。この一事をとっても、ちづりん有川の研究者としての評価をご理解いただけると思う。万事につけ、控えめなちづりん。余計なお世話と重々承知しながら、今回の上梓をみんなでお祝いしたかった。でしゃばってしまったら、ごめんなさい。


ちづりん、『斎藤茂吉研究ー詩法におけるニーチェの影響ー』、ご上梓おめでとうございます


   天平の梅花の宴にゆかりする御代に開かんあたらしき知を

   天平の梅を過ぎ来し東風ならん令和間近のけふを吹く風

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by minaminouozafk | 2019-04-02 08:15 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(7)


お蔭さまで、「水城」272号が出来上がりました。



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内から外から多くの支えをいただいて成った一冊です。それでもきっと、気づいていない支えも多いのだと思います。



「水城」には、巻頭詠の欄があります。通常の会員作品は5首ですが、巻頭詠は10首。2倍になります。この巻頭詠の評は、水城会員以外の、つまり外部の人にお願いしています。外部といってもコスモスという視点に立つと内部ですが。



前号の巻頭詠は、大西晶子さんの「よりくる秋」。作者らしい情趣の一連です。それに対する評として、本号は、田宮朋子さん執筆の「晩夏の想念」を掲載することができました。作品10首全てについて丁寧に論じられ、読むたびに自然と背筋が伸びてゆくような批評です。



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 ご縁があって、272号を手にしてくださった方、これから出会ってくださる方、こころよりありがとうございます。



  ガリ版のガリははるかなオノマトペわが手の生みしことなき音色



by minaminouozafk | 2019-03-13 06:48 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(7)

 昨年7月13日のブログでも紹介した、福岡の若きホープ山下翔さんの新しい詠草集が届いた。

47頁からなる旅の記録を、行く先々ごと20箇所に分け、各15首と1頁ごとにエッセイを載せる。

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キャラバンと名付けた四回目の今回の始まりは「福岡、九州のそとの人と短歌のはなしをしたい、とおもった」と書かれる。一週間の旅で、300首。一年前、第三回目のキャラバンは西日本新聞でのご自身のエッセイ「随筆喫茶」によると、5日間の旅で800首を自らに課して読んだと書かれていたので、多作の作者であり、努力の人なのだと思う。

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縮小で判りづらいが、表紙のラインと目次の地名をつなぐラインは線路をかたどってシンプルながらも旅心をそそられる。前回同様「青春18きっぷ」を駆使しての、ほぼ観光なしの各地での歌会、宴会による歌人たちとの交流を広げる旅なのである。各地での作品から数首挙げる。

(福岡)水風呂にみづの芯あるごときかな秋のはじめの旅のあしたは

(仙台)今さら来たつておそいのだけど見ておかむこの川岸のしろき堤防

(東北本線)やはらかに雨降り出づる午後なればひかりはこもる新白河に

(両毛線)足利を過ぎつつ日暮れさくら葉のもみぢする頃また通りたし

(伊勢崎)牧水の身のおとろふる有様を歌集に読めばさみしきものを

(高崎)一杯の〈香る〉エールがよびさます記憶のこともたのしきろかも

(大宮)人工のこゑと生なる声とああうちかさなりて駅はひびくも

(神保町)目黒からくだれば渋谷だから谷、だからの声のすみとほるよし

(鎌倉)秋の日のとほき居眠りバスの席に母が閉ぢたるまぶたまばゆし

(静岡)ききかへすきみのことばのひとつひとつが波のごとしよわれはぬれつつ

(天満橋)旅の夜の果ての大阪ぬれながらみづに芯ある秋と思へり

 「みづの芯」で始まり「みづに芯」で終る一連はこの「に」により到達点を示された思いが湧く。

旅先を叙景で終らせない豊かな詠みで、過ぎ去ってゆく再会する人々との交流は温かくも寂しさを伴って詠まれる。

旧仮名表記でありながら、つぶやきのような平明な言葉の中に古典も取り入れる。するりと腑に落ちて心地良い。常日頃の研鑚もさることながら自然体な山下の人柄もあるのだろう。持参した牧水の歌集を詠む歌もあり、旅と酒を愛し各所で歌を詠み飲んだ牧水と山下が重なってくる。

所持金がだんだん減ってコインランドリーでの乾燥も生乾きのまま部屋干しにし、穴の開いたサンダルで旅を続ける。そしてついに現金が尽き、クレジットカードでメンチカツを買う恥ずかしさ、文学フリマで歌集が売れて得たお金で昼食のバーガーを食べる歌など、等身大の山下が臆面もなく、自然に詠みこまれる。こんな歌もある。

『温泉』は苦しい歌集と言はれたり苦しいところが現実ならむ

エッセイにも、歌に対する思いが真摯に綴られ、第一歌集『温泉』(藤野早苗さんが「灯船」に歌集評をかかれたので、ご参考にしてください)での歌を詠む苦しみのなかで「うたが苦しみをやわらげることもある」と書かれていたことに安堵するのであった。

 山下翔さんは昨年の「短歌フェスタ」に引き続き、(昨年518日のブログでその様子を紹介しています)今年の5月12日開催の第2回目にも、シンポジュウムのパネラー、歌会の選者として参加してくださる。

現代短歌社賞に2年連続次席となった作品を核とした第一歌集『温泉』で第44回現代歌人集会賞を受賞されて一回り大きくなった(この旅で体重も増えたとあったが……)山下翔さんが、どんな発信をしてくださるのか今から楽しみである。お一人でも多くの方の参加をお待ちしています。

詳細は「福岡短歌フェスタ2019」で検索を。参加申し込みもサイトから出来ます。

       きみの笑顔を思ひうかべて待つてゐる五月まばゆきひかりのときを


by minaminouozafk | 2019-02-22 07:03 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(6)

こんな歌を詠みたいと、ずっと憧れている歌人。日高堯子。彼女の第九歌集『空目の秋』を詠んだ。


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・『明月記』の廃墟の中よりわれは聞く美しきこゑ執念(しうね)きことば

()(ぼくろ)のやはらかき声そのむかしそのむかしへとうらがへりゆく

・まれびとといふ神ありき塗り椀の蓋をあければなつかしき靄

・たまのをよたえねと誰かしろがねの午后四時の風に竹の葉が降る

・「わたしはいつ死ぬのかしら」ときく母に「あしたよ」といふ あしたは光

・夏は来てましろ卯の花なだれたりこの世の崖に母捨てられず

・あぢさゐの朝な朝なに青深むふかしぎとしていのちありたり


 2014年から2018年の作品470首を収録。おそらく母上の介護のためであるのだろう、自宅と実家すなわち都市と里山を行き来する暮らしの中で、自然の風景や人間の生死をいやおうなく見つめることになった、とあとがきに記す。


 1988年の第一歌集『野の扉』からすでに、日高にはアニミズム的な感覚が顕著であった。それは後日、『山上のコスモロジー 前登志夫論』として客観化され、作歌手法として確立された。


 本書においてもその作歌方向に大きな変化はない。ただ、都市と里山の往還の日々は、物理的にも思索の面においても、現実と非現実の継ぎ目を不明瞭にした。これまで以上になめらかに、日高は千年という単位の時間を、また生物の種を、いや生と死のあわいを飛び越えて、発語する。短歌という不死の運動体の手を借りて。


 掲出作品、七首、どの作品の背後にも静かに流れる時間がある。時間という縦軸を自在に往還し、そこから今という時代を逆照射する作者。また都市と地方との往還は水平方向の軸を伸長し、結果、作者の作歌のフィールドは大きな広がりを見せている。


 さて、本歌集のタイトル『空目の秋』、「空目」とは何だろう。「あとがき」より引く。


・これまでもっぱら魂の領分を好んできたわたしですが、父母の生死にかかわる時間が多くなるにつれ、しだいに生命や身体への関心も増えてきました。そうした中で出会ったのが、福岡伸一氏の『動的平衡』(木楽舎)にある「空目」でした。(中略)福岡氏はこの言葉に新しい息を吹き込んで、これは単に幻視のことではなく、ランダムなことがらに対して特別なパターンや関係性を見てしまう脳の癖だと言います。それを読みつつ、わたしは自分が歌ってきた〈時の風景〉も〈自然の情景〉も、この「空目」に深くとらわれていたのではないかという思いを強くしました。また同時に、そういう目の仕組みを知ることで、わたしの生命幻想の枠がいくらか解き払われたとも感じています。「空目」を歌集名に据えたゆえんです。


 「空目」とは、脳の癖。そう言われてしまうと身も蓋もないが、たしかにそうかもしれない。私が日高作品に惹かれてやまないのも、どこか似たような脳の癖があるのかもしれない。


・霊魂はいづこと問はば笑ふべしたましひ好きの日高なりしと


 これは結社「かりん」で日高の盟友であった小高賢への挽歌である。小高の不慮の死は多くの人を嘆かせた。その早すぎる死に際し、魂はいまだこの世に留まっているのではないか、と考え、問う日高に「相変わらず、魂の話が好きだな、あなた。」と返す小高。脳の癖は全く違っていたであろう二人の時空を超えた交歓が慕わしい。


 日高が挙げている福岡伸一氏の『動的平衡』。恥ずかしながら未読なのだが、ぜひ読んでみたい一冊だ。ウィキ先生に尋ねてみると、「動的平衡」とは、一見変化がないように見えるが、それは創造と破壊のバランスが取れていて、結果動きがないように見えている状態なのだという。だとすれば、私たちのこの平凡な日常は実は創造と破壊の危うい均衡の上に成立していることになる。静謐さの中にも緊張感のある日高作品。それはこの危うさを誰よりも体感しているゆえなのだと気づかされた。


創造の名のもと破壊を繰り返し自己破産するしかない地球



*昨日のななみさんの宮武外骨、1月17日のTwitterで、福岡伸一氏が採り上げていました。シンクロですね。



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今年の全国短歌大会の選者に日高堯子氏が。
お話聞きたいなあ。




by minaminouozafk | 2019-01-29 09:48 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(6)


冬の海のようなペールグレーの装丁。「うた読む窓辺、うた待つ海辺」という魅力的なタイトル。上村典子さんは山口県光市在住の歌人。「音」の編集委員、選者をされている。三年前の第五歌集「天花」は何度もひっそりと愛読している。



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窓辺に今日の<うた>を読み、海辺に明日の<うた>を待つ。

自らの作家体験を踏まえ、的確かつ怜悧な筆致によって

短歌の諸問題を真摯に論じた待望の書。

〈帯のことば〉

 あとがきに、1985年「音」入会後の、「音」や総合誌などに発表した文章から、32篇を選んで一冊とした。とある。県大会や理事会でご一緒させてもらったとき、その帰りに車中の雑談での歌や家族への思いを話された。おだやかな語り口のなかに熾火のような熱情がちらり。高校の終わりの頃に中城ふみ子や河野裕子を繰り返し読んだ作者。大好きな歌という詩型に魅了され続けた三十数年の自らの内部にありのまま対峙した一冊。歌という短い詩型で伝えられること、伝えるべきこと。あらためて歌とのそして上村さんとの出会いをうれしく思う。



*千年なにもせぬなり

*迷っていること もとめていること

*試みの影

*自愛の方向

*不思議な詩型を満たすもの

*ブリ大根・木の芽和へ

*批評精神の芯にあるもの

*蕨のごとく頭垂れ

*「父」の戦争と黙契


目次からとくに印象深かったものを挙げた。


今という地点に立ちながら、問いかけは遥かなところへと向かっている短歌をめざす。人間のもつ時間軸の中で、その問いを包む込んでいる場、そういう歌の場を希求する作者。思いはまさしく同じで、まだまだ途上の私の目標になる。一歩ずつすすんで行きたい。短歌は自愛の強い人間のための文芸。だから横溢するわれを制御するための定型という。私自身は歌を詠むときなかなか自分を思い切りだせない。ただ個性が欠けているだけかもしれない。短歌の未来は作者が他者を意識し、歴史認識をもつべきという言葉は励みとなる。

10ページほどの短文は心惹かれた歌集の紹介もある。自己の生を自然のなかに放ちつつ、開示し続けるという築地正子歌集『みどりなりけり』。ぜひ一読して試みの影をじっくりと味わいたい。味覚、食の歌には歌人の全てが宿るという作者のおすすめの作品。

季節(とき)くれば木の芽和へなど作らせて酒飲みまする 学成り難し

焙烙に青のり焙り醤油かけ上様(かみさん)留守の昼酒美味(うま)

中川健次『億劫』

中川健次氏は上村さんと同じ光市在住の歌人、急逝されて七年。


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 「生の意味を問い続け、存在の奥を歌う短歌」という武川忠一氏の言葉に圧倒されて入会された「音」。コスモスも広くは同じだと思う。それが際立っている作品として田谷鋭の「生活に面伏すごとく日々経つつセルジュリファールの踊りも過ぎむ」を武川忠一は取り上げている。蕨のごとく頭垂れは、柏崎驍二さんの歌集七冊を丁寧に再読されての批評。初出は「梁」91号、以前ブログで紹介があったと思う。

 最後の「父」の戦争と黙契。戦後73年。なんとも時代の空気は重い。辺見庸の 〈 黙契である。ニッポンの戦後は知らずに(問わずに)すませるべきでなかったものを」「知らずに(問わずに)すませてしまおう」という、つよい黙契によって、むなしい擬似的平穏をたもってきたのだ。〉 は心に突き刺さる。そして作者の「今や歴史修正の波はそれとは知らされず(またもや)各所で事実を曲げ、さまざまな方便を駆使して、この国は戦前の様相を呈している。」は、まさしく私の気がかりの原因である。あたらしい年号に変わる今、立ち止まってしっかりと歴史を認識するときではないか。




歴史はいつも人間のもつ時間軸である。平成の最後の冬。過去のうえに今がある。そして遥か未来を思う歌。おだやかな瀬戸内海をのぞむ窓辺で自己の存在の奥を、ずっと答えの出ないものの光や影を作者は歌っていかれると思う。声高ではないが心に共鳴する言葉がつづく。同じ風土に暮らすものとしてその灯火をたよりに歌を作り続けることができるのは無上のよろこびである。





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おかへりと五十五歳のしたごころを膨らませゆく窓辺のひかり















by minaminouozafk | 2019-01-14 06:00 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(7)

あけましておめでとうございます


当ブログへのご訪問、いつもありがとうございます。本年も当ブログ「南の魚座 福岡短歌日乗」、よろしくお願い申し上げます。


 新年のご挨拶のタイミングで……と思っておりましたので(元日は火曜日!)、お知らせが遅くなりました。

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やはりひがしはまねさんの装幀は美しい。
これだけでも価値がある。(笑)。


 「南の魚座」vol.2 、昨年(!)12月25日付で刊行いたしました。すでにお手元に届いている方々もいらっしゃると思います。拙宅にも丁寧に読み込んで下さったみなさまからのご感想のお手紙、お電話、メール等、いただいております。ありがとうございます。私たちが日々の目標とする「毎日更新」の励みとなります。


 歌誌「南の魚座」は、ブログ「南の魚座 福岡短歌日乗」一年分の短歌、エッセイをまとめたもの。全部を掲載することはできないので、各曜日担当の七名は、短歌48首、エッセイ2篇、そして後方支援の男性三名は新作12首を発表しています。今号の新しい試みとしては、一年間に掲載した歌集・歌誌評のアーカイブを作り記録に残しています。その中から短いですが、2篇、歌集評を掲載しています。本当はもう少し文章の充実を図りたいところですが、これは予算との兼ね合い。せっかく書き手は充実しているのにもったいないなあ、と思うのでした。次号への懸案ですね。


 では、本書の中の My favorite を紹介いたします(掲載順)。


有川知津子「虹の化石」

・ちぢみつつ子猫消えたりたんぽぽの白き綿毛の球体の中

走り去る子猫との距離感の描写が秀逸。現実が非現実であるかのような錯覚を起こさせる。作者の世界観の不可思議さがいい。


鈴木千登世「渦の野原」

・文字持たぬ者の描きし蕨手(わらびて)(もん)渦の野原を馬は越え行く

「王塚古墳」という註のある一首。遥かな時空を馬と旅するような感覚に誘ってくれる作品。具体から想像世界への飛翔のバランスがいい。


大野英子「それでいいのだ」

・土笛を吹けば枯れ野を渡りくる風ありわたしを遠く呼ぶ風

タイトル、ちょっと()。バカボンかな? と思わせて、作品は正統派。しかし、表現上の細かな工夫、チャレンジが伺える作品揃い。掲載歌のポイントはリフレイン。


栗山由利「二のN乗分の一」

・夏の陽が直滑降でめざす先ブラックベリーはむくむく太る

作者は高専卒のリアル理系女。タイトルから察せられるような合理的で潔い発想が魅力。掲載歌、上句、抜群。ブラックベリーにフォーカスした点も手柄。


大西晶子「遠き舟の灯」

・釣りびとの立つ波止のした海面を月夜のがざみがよこ泳ぎする

この一年は素晴らしい孫歌をたくさん発表した作者。孫を詠んで甘くならないのは生来の観察眼と客観性のゆえか。結句「よこ泳ぎする」に、その本性が感受される。


百留ななみ「野の花図鑑」

已己巳(いこみ)()の里芋六つを手羽先とこつてりと炊き小正月待つ

「已己巳己」、面白い。言葉の発見が詩心を促すことがある。土の匂いのする武骨な里芋に寄せる眼差しが温かい。


藤野早苗「小さな魔族」

・早乙女でありしむかしを縁側で語れる嫗 あれはわたくし

本書をお読み下さった森重香代子氏が選んで下さった一首。ありがとうございます。香代子先生、嬉しいです。


中村仁彦「時がすぎゆく」

・雄しべ揺れ未央柳が笑ふかな梅雨入り前の公園しづか

大きな手術からちょうど一年。温厚な笑顔が印象的な作者だが、最近は歌にかける気概が感じられ、作風に変化が見られる。楽しみである。


辻本浩「玄界」

・荷を積みしトラック一台見送れば我を残して家は空っぽ

福岡を離れ、今は熊本在住の作者。変わらず「南の魚座」メンバーでいてくれることが嬉しい。心はここに残っている。


栗山貴臣「朝日あつめて」

・電車待つプラットホームを歩く鳩スマホを覗く人に知られず

作歌歴一年ちょっと、という作者。「南の魚座」のIT管理部長である。見落としがち、見落とされがちなものに注ぐ眼差しに個性がある。福岡支部のライジングスターである。


 以上、まことにざっくりした紹介で申し訳ないのですが、興味のある方、ぜひご連絡下さい。残部少々ございます。

 それでは、みなさま、よき元日をお過ごし下さい。



   五十六年生きてひとりの元旦をはじめて迎ふ いとをかしけれ

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今年は手作り(人の手も借りて)、わが家の御節。

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金銀招き猫。
善き訪れを願って。
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ベランダの苺。
四季生りではないのに、頑張っている。
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今年のカレンダーは大好きなミュシャ。
いい一年になりますように。





by minaminouozafk | 2019-01-01 11:00 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(11)