この春は、たんぽぽを観察する機会に恵まれた。ぽぽ。


そんなこともあって、ななみさんの記事(4月2日)に、

たんぽぽのタンポポタンポポした姿が紹介されたときには嬉しかった。


たんぽぽを見ると思い出される歌や詩や句がある。ぽぽ。


そのうちの一つ。


  郷里柳河に帰りてうたへる歌

  廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける

                       白秋『桐の花』



春は短い。

この辺りでは、もう、たんぽぽの盛りは過ぎてしまった。ぽぽ……


今年の春の記念に、たんぽぽの写真を掲げておこう。


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                《カンサイタンポポ》


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                《シロバナタンポポ。下も》


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  ちぢみつつ子猫消えたりたんぽぽの白き綿毛の球体のなか




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# by minaminouozafk | 2018-04-25 06:48 | Comments(4)

第四火曜日。

マイルールで、この日は歌集紹介をすることにしている。(今年からね。)

で、今回は、川野里子氏の第五歌集『硝子の島』。


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五章からなるこの歌集には、ヴェネチアで知った東日本大震災とその後の原発禍、そうした出来事を日本の外側から見つめることで終末へと歩を進めるこの国への危機感が浮き彫りになっている。

また、老いてゆく母との、埋めようのない心理的な距離感が随所に詠まれていて、高齢社会日本に生きるかなしみが胸に迫る。

この記事で作品を紹介したいところだが、この歌集、「水城」270号に評を書かせていただきたいので、詳しくはそちらをご覧下さると幸いである。


今日のところは、次の一首をご紹介。


・罌粟咲くかまた罌粟咲くか罌粟咲きてなぜふるへるかなぜうつむくか


この作品、いかがだろうか。

どういう印象、読後感を持たれただろう。

私は怖かった。

罌粟の花のことしか言ってないのに、世界が終わるような虚無感に襲われ、たましいが逆撫でされているような感じがした。

罌粟は異名阿片草。可憐な姿とミスマッチな不穏さを湛える花。それが次々に開き、そして震え、うつむいているという。まるで開いてはいけないものを開いてしまった罪におびえるかのように。


素材とリズム。

内容の具体は一切告げず、世界の危うさをそれのみに伝える一首。時事を常に自身に内在させ、咀嚼して作品化するからこそ可能になる抽象化。「ふるへる」「うつむく」という下句の動詞が、観念に流れるのを救っている。

ただ一首を紹介するだけで、この歌集の充実ぶりが想像できるだろう。圧巻の一冊であった。



  ぬるま湯に首まで浸かりぬるいねと従順にして言ひあへるのみ



*二月の歌集・歌書紹介(『いただいた句』本阿弥秀雄著)の記事を俳句雑誌「春月」五月号で紹介いただきました。御本、ご恵送下さいました戸恒東人さま、ありがとうございました。大変うれしく拝読いたしました。

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# by minaminouozafk | 2018-04-24 02:23 | Comments(5)


友だちに誘われてふたたびの尾道、1か月ぶり。

最高の青空だが、向島には500人以上の警察官が捜索中のこのたびは島へ渡ることは断念。

気儘な女子旅は路地探索。坂道、階段の続く町。寺の町。猫の町。


そして尾道市立美術館の企画展〈にゃんとも猫だらけ〉。

ポスターもとても魅力的、色あいも素敵。



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まずは大きな大きな猫ちゃんがお出迎え。


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『にゃんとも猫だらけ』は浮世絵に描かれている猫たちの展示会。

猫を愛してやまなかった歌川国芳をはじめ多くの多くの浮世絵師によって繰り広げられる猫だらけの館内。

とにかく面白く楽しく可愛くちょっと怖い。


まず歌川広重の白猫ちゃん。とおくの富士山をながめつつ夕暮れの窓辺にすわっている。

酉の市のある浅草吉原らしい。ちょこんとした尻尾、ちょっと怒ったような思索にふけっているような後ろ姿がたまらない。


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美人画にも猫。源氏物語の若菜上では、女三宮の猫事件は有名。それを題材とした美人画も多い。

美女と猫。裾に肩に胸にもぐりこむちょっと怖いリアルな猫ちゃん。


歌川国貞の作品。肩にチョコンと座った猫のカメラ目線がなんともかわいい。国貞もたくさんの猫を描いている。


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楽しいのはおもちゃ絵の猫たち。人間のようにふるまう猫だけの世界。猫の長屋、猫の温泉。めちゃくちゃ細部まで凝っていてそれぞれに添えられている言葉がなんとも粋である。



図録まで買ってしまったのだが、小さな筆書きの言葉をきちんと活字にしてくれていて非常にうれしい。

ねずみとり薬を売る猫、重い重い鰹節を運ぶ猫、玉転がしをする猫・・・




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猫も温泉では履物を脱ぐ。湯船にもゆっくり浸かる。打たせ湯もある。湯上がりにはお二階で刺し身で一杯もできるようだ。にゃんとも楽しい。


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大の猫好きの山東京山・作、歌川国芳・絵の『朧月 猫の草紙』。


耳が遠くなった山東京山は、耳の名医「みけ村にゃう庵」によって耳が聞こえるようになっただけでなく、猫の言葉がわかるようになった。

猫から聞いたおはなし。国芳の擬人化された猫たちの表情が実にゆたか。


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まだまだ紹介したい猫たちは数多。これらの作品は平木浮世絵財団のコレクション。

現在、平木浮世絵美術館は閉館しているが、全国の美術館・博物館にてコレクション展を開催。



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尾道の路地で出会ったうるわしき黒猫






フォークもつ指に肉球 着こなしのお洒落な猫とランチする夢



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# by minaminouozafk | 2018-04-23 07:39 | Comments(7)

街路樹の花  大西晶子

このところ、福岡に行く機会が多い。気温が上がり、初夏のような日が続いているが、そんなある日天神の〈きらめき通り〉と呼ばれている道路で、街路樹に濃いピンクの花がたくさん咲いているのに気が付いた。桐の花のように枝から花が塔状に立ちあがって咲いている、初めて見る花だ。

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似たものと言えば、札幌の蜂蜜店で見かけた蜜を採取する花の写真のトチノキを思い出した。しかし北海道にあるものが九州にもあるのだろうか。トチノキと言えば栃木県の県木だが、こちらもずいぶん遠い。

疑問はすぐに調べるべし、ということで「福岡市、街路樹 

天神」と検索したら、ヒットした。福岡市の「街路樹路線概要検索」というサイトの「福岡市中央区の街路樹路線概要」というページに市内の通りの名と街路樹が書かれた一覧表があったのだ。

きらめき通りの街路樹はベニバナトチノキとあった。成程、赤い花で納得した。



トチノキを調べてみたら、日本では東日本特に東北地方に顕著に見られる木で、近縁種のセイヨウトチノキがフランス語名マロニエとしてよく知られるとある。また、トチの漢字表記には栃と橡がある。

〈きらめき通り〉の街路樹のベニバナトチノキ(紅花栃の木)は北米南部原産のアカバナトチノキとヨーロッパ原産のセイヨウトチノキの交雑種だという。いづれにしても、初めて見るトチノキの花、巫女さんたちが〈浦安の舞〉を舞うときに手にする鉾鈴と良く似た形の円錐花序の濃いピンクが青空によく映える。


初夏を思わす青空のもと〈きらめき通り〉の花咲くベニバナトチノキの下を、大半はは若い歩行者たちが足早に、あるいは大きなスーツケースを引きずりながら通り過ぎていく。

閑(しづ)けかるかくのごときを我が云ひて黄の橡(つるばみ)の夕霧のいろ                北原白秋『橡』        
 この歌の橡は秋の落葉前の木なのだろう。

 

(とち)並木雪ふれる夜をえいえいと呼ぶ木、おうおうと応ふる木あり                         

                       高野公彦『水行』
冬の夜になればこんな風景も見られるかもしれない。

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      紅き花に近寄るわれを足早の若きら避けゆく橡(とち)の樹のした
      
                                             晶子






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# by minaminouozafk | 2018-04-22 09:24 | Comments(6)

 頭や尾が見るも無残に傷ついた鳥の置物がある。アオカケスは全形をとどめているが、ウグイスとミソサザイには尾が無い。ミソサザイにいたっては頭から胸の部分も素材がむき出しになってしまっている。見ているだけでも可哀想で、飾り物としてももう使えないのだが捨てることが出来ずに夫の部屋の棚の上にずっと置いてある。


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 この鳥たちにこんな悪さをしたのは、息子たちではなくて5年前に亡くなった猫のいねである。鳥が大好きだった。生まれて一年ほどは外に自由に出ていたので、テリトリーの公園や駐車場に来る雀や鳩を知っていた。くわえて彼女の鳥好きは母親譲りで、野良猫だった母親がお腹にいねたち兄弟を抱えていたとき、跳び遊ぶ雀を目で追いながらその口からつつつーっと長いよだれを落としているのを目撃したことがあった。縁あっていねはわが家の猫になったのだが、その鳥好きは家飼いをするようになってからは窓辺から電線に留まっている鳥を眺めることでしか満たされないようになった。


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<わたしがいねです>


 この鳥の置物がどういう経緯でわが家にあるのか忘れてしまったが、三羽とも息子の机の上に置いていたと思う。そんなある日、鳥の尾のところに歯型のような穴があいていているのに気がついたのだが、とりわけ気にもとめずに過ごしているうちに次第に傷は深くなり、そしてついにその現場を押さえるにいたったのである。いねが必死の様子で鳥の頭に食らいついていた。


 そんな思い出のあるものなので、いざ処分しようかと一旦は手にしてもまた「まぁ、いいかっ」と元の場所に戻してしまう。実は、家の中はそんなもので溢れている。長男が小一の時に描いた遠足の絵は、初めて見た乳牛が強烈な印象だったのかおおきなお乳に乳首が10個以上ある。次男が高校生の時に運動会で三年間演じた応援団の学ランの衣装。お針子さんの女子生徒が綺麗にかっこよく作ってくれたものだ。


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 しかし、考えてみるとその思い出にこだわっているのは私だけなのではないかとも思う。私さえ頭を切り替えれば、家の中はすっきりと片付くはずである。そうは言っても過ぎた時を手に取れるものがなくなってしまうのも寂しい。いつもこの二つの思いの間で揺れているので、わが家は一向に片付かないままだ。


   思ひ出を胸にしまつてわたくしは抱卵をするめんどりになる


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# by minaminouozafk | 2018-04-21 11:02 | Comments(6)

著者の木畑さんは「ささやかな読書ノート」と表現されるが、結社内同人誌「棧橋」、終刊後は継続誌「灯船」に全24回に渡って連載された歌人論。
戦前、戦後の歌人の歌をアンソロジー的に抜粋されたものは多いが、木畑さんはそれぞれキーポイントになる歌集に焦点を当て、時代背景から作者の短歌論まで丁寧に解説されている。
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                この一冊に相応しいノスタルジックでシンプルな装丁

第一回は〈「時間」の写生〉と題する佐藤佐太郎。
宮柊二とほぼ同年代。
茂吉に師事し、アララギ派の写実主義を受け継ぎながらも茂吉より自立。戦後という「貧」の時代に自ら短歌至上の貧の生活を選んだ佐太郎。
なぜ「貧」が必要だったのか。「純粋短歌論」と、この論に裏打ちされ、歌風が確立したとされる第五歌集『帰潮』から短歌と向き合う姿勢を探る。
純粋短歌論の中の言葉「断片」と「瞬間」をキーワードにして作品を読み解き、戦後の歌壇の動きとの比較も、佐太郎の歌人としての個を明確に立ち上げる。

佐太郎を論じた上での第二回は宮柊二という流れも必然である。
『現代短歌大系』において山本太郎が『晩夏』に柊二の屈折点を見出し、「宮柊二の歌にはじめて興味深い乱調が、いやおうなく出現した事実」を捉えたことに焦点を当て、制作時期の重なる佐太郎の『帰潮』と比較しながら「乱調」の謎を解き明かしてゆく。
私にとっても、謎が多いと感じていた作品の丁寧な解説と柊二の心情の汲み取り方が温かくも深い。
そして〈「自然在」なる歌はあらず〉と題された論にたどり着く木畑さんの歌人としての覚悟が伝わる。

第三回は白秋門下の歌人としての活躍をした木俣修の『冬暦』
敗戦という闇のなか「白秋の形骸的模倣歌」を作ることの戒めを掲げながらも白秋と通底する人間に向ける眼差しの温かさを見出してゆく。

もう少し紹介すると、語られることの少なかった山崎方代は〈仲間と裡なる故郷〉とする方代を支えた岡部桂一郎の作品との比較。
木畑さんは第五歌集『冬暁』のなかで〈鍬を手に野良よりもどる左右口の媼は方代の母にあらずや〉と方代の故郷を訪ねた一連があった。もしかしてこの論を書くにあたっての取材だったのかも。

塚本邦雄〈イエスと短歌への愛憎〉では洗礼を受けた木畑さんらしい塚本の現代短歌への愛と「イエス」への愛を考察しながらも塚本を「諧謔に満ちた明るく饒舌な大阪人ではないかとも思う」と書かれるのも上方喜劇の藤山寛美好きの木畑さんらしさかも。

最後24回は〈父たちの悔しみを継ぐ〉小高賢、桑原正紀のそれぞれ第一歌集。
宮柊二を敬愛し、戦後を引き摺るように詠まれた二人の歌集を問い直す作業は最終稿に相応しいものであった。

このようにどこを読んでも、丁寧で深い愛に満ちており、あとがきに「図書館通いがはじまりました」と記されるように、膨大な資料を読まれたことが伝わり、頭が下がる。そしてその成果のおいしい所だけ鑑賞させていただける喜びに浸っている。改めて木畑さんに感謝。

   
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              裏表紙の小さなサインも木畑さんらしくて素敵

      あたたかなまなざしのなかに浸りゐる読書時間に春の風吹く



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# by minaminouozafk | 2018-04-20 07:02 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(7)

青海波  鈴木千登世

以前に父方の祖父が漁師だったと書いた。母方も山陰の出身で海とはゆかりが深い。夏休みは決まって祖父母の家を訪れ海で泳いだ。山陰の海は磯が多く、岩場をたどりつつ、なぞりつつ泳ぐ。油断していると波に弄ばれ、岩にぶつかってしまう。波の動きを予想しながら岩の間をゆるゆると泳いだりもぐったりして、飽きると岩にのぼってひなたぼっこしていた。



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「青海波文」という海の波のうねりをかたどった伝統模様がある。

「同心円の弧を鱗状に並べた日本の文様。古墳時代の女子の衣服に描かれ、平安時代の十二単の裳や小袖に用いられた。まだ舞楽の『青海波』の衣装にも使われたため、この名があるといわれる。(後略)」『ブリタニカ国際大百科事典』この青海波文に似た幾何学的な波の模様は中国や、中央アジアにも見られるという。



『源氏物語』の中に18歳の源氏が、朱雀院行幸の試楽(リハーサル)として頭中将ともにゆったりと袖を振りながら舞楽の青海波を踊る印象的な場面がある。そのことについて調べていたとき、ネットで「青海波」を検索したところ思いがけずブロック塀の模様にヒットした。


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           このような模様をご覧になったことはないだろうか。



ブロックのような無機質なものにまで「青海波」というゆかしい名の模様を入れて海を表さずにはいられない、この国の、海へのあこがれを思う。しかもこの「透かしブロック」(と呼ばれるらしい)のデザインにはさまざまなバリエーションがあって奥が深いのである。(たくさんの画像が紹介されていて驚くばかりである)影響されて、街を行き来する度に目が止まるようになってしまった。



海の国日本にあればうすずみのブロック塀に寄る青海波


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# by minaminouozafk | 2018-04-19 06:00 | Comments(7)