2018年 11月 07日 ( 1 )

水城  有川知津子


あれは、663年白村江でのことだった。要請に応じて百済の救援に赴いた日本軍は、唐―新羅連合軍に敗北。それはそのまま、唐―新羅の侵攻の脅威にさらされることを意味した。ただちに北九州の防衛体制は強化されなければならない



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天智天皇は決断する人である。壱岐対馬、そして筑紫の海岸線に沿って防人を配し、烽(とぶひ)を置いた。むろん、九州の政治経済の中枢である大宰府の防衛も考えられた。そのために築かれた一つが、今、ご覧いただいた写真を左右に横切る堤防である。これを〈水城〉と呼ぶ。正確には、水城跡と言わねばならないか。



『日本書紀』天智天皇3(664)年の条をみると、

又於筑紫、築大堤貯水、名曰水城。

(また筑紫に、大堤を築いて水を貯え、名付けて水城といった。)

とある。この大堤〈水城〉の規模は、注釈書によると、全長1.2キロメートル、基底部幅80メートル、高さ13メートル。これで、博多湾からの侵攻に備えたという。



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 実は、この日、水城に来る予定はなかった。小さな齟齬が重なって、目的地には行けず、気づいたらもう夕暮れで、私は知らなかったけれど、〈水城〉が近いという地点にいた。



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私の立っているところは、〈水城〉の外濠にあたる。かつて国を守るために水をたくわえたところには、今、コスモスが咲いている。見ているとどこまでもどこまでも咲いている。そんなはずはないのに、やっぱりどこまでもいつまでも咲いている。



帰るころにはここが目的地であったように思えていた。



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大いなる〈水城〉のことを話さうか余談の好きな生徒のために




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by minaminouozafk | 2018-11-07 07:00 | Comments(7)