2017年 08月 01日 ( 1 )

物理学校裏

Borum.Bromun. Calcium.

Chromium.Manganum. Kalium. Phosphor.

Barium.Iodium. Hydrogenium.

Sulphur.Chlorum. Strontium. ……

(寂しい声がきこえる、そして不可思議な……

日が暮れた、淡(うす)い銀と紫――

蒸し暑い六月の空に

暮れのこる棕梠の花の悩ましさ。

黄色い、新しい花穂(ふさ)の聚団(あつまり)が

暗い裂けた葉の陰影(かげ)から噎(む)せる如(やう)に光る。

さうして深い吐息(といき)と腋臭(わきが)とを放つ

歯痛(しつう)の色の黄(きな)、沃土ホルムの黄(きな)、粉つぽい亢奮の黄(きな)。

C2H2O2N2NaOHCH4Na2CO3……

蒼白い白熱瓦斯の情調(ムウド)が曇硝子を透して流れる。

角窓のそのひとつの内部(インテリオル)に

光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。

肺病院の如(やう)な東京物理学校の淡(うす)い青灰色(せいくわいしよく)の壁に

いつしかあるかなきかの月光がしたるる。

Tn …… tn…… tn. n. n. n …… tn.n ……

 tire …… tire …… tn. n. n. n.…… syn ……

t …… t ……t …… t …… tone …… tsn. n. …… syn. n. n. n. n ……

静かな悩ましい晩、

何処かにお稽古(けいこ)の琴の音がきこえて、

崖下の小さい平家(ひらや)の亜鉛屋根に

コルタアが青く光り、

柔(やは)らかい草いきれの底に Lamp の黄色い赤みが点る。

その上の、見よ、すこしばかりの空地(あきち)には

湿(しめ)つた胡瓜と茄子の鄙びた新らしい臭(にほひ)が

惶(あわ)ただしい市街生活の哀愁(あいしゆう)に縺れる……

汽笛が鳴る……四谷を出た汽車の Cadence(カダンス) が近づく……

暮れ悩む官能の棕梠

そのわかわかしい花穂(ふさ)の臭(にほひ)が暗みながら噎(むせ)ぶ、

歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。

寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な……

そこここの明(あか)るい角のなかから。

Sin ……,Cosin ……. Tan ……, Cotan ……. Sec ……, Cosec ……. etc ……

Ion. Dynamo.Roentgen. Boyle. Newton.

Lens.Siphon. Spectrum. Tesla の火花

摂氏、華氏、光、Bunsen. Potential. or,Archimedes. etc, etc……

棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、

無意味な琴の音の稚(をさ)なびた Sentiment

何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。

汽笛が鳴る……濠端(ほりばた)の淡(うす)い銀と紫との空に

停車(とま)つた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。

静かな三分間。

悩ましい棕梠の花の官能に、今、

蒸し暑い魔睡がもつれ、

暗い裂けた葉の縁(ふち)から銀の憂欝(メランコリイ)がしたたる。

その陰影(かげ)の捕捉(とら)へがたき Passion の色、

歯痛の色の黄(きな)、沃土ホルムの黄(きな)、粉つぽい亢奮の黄(きな)。

Neon.Flourum. Magnesium.

Natrium.Silicium. Oxygenium.

Nitrogenium.Cadimium or, Stibium

           etc., etc.……


北原白秋『東京景物其他』より「物理学校裏」  明治43




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神楽坂の一角に立つ商業ビル「ポルタ神楽坂」の南側、すなわち裏手にある小栗横丁。ここに新宿区指定史跡「白秋旧居跡」がある。案内板によると、白秋がここ(神楽坂2-22)に住んでいたのは明治41年から約1年ほど。白秋が住む以前、明治36年から39年にかけては、泉鏡花が芸妓と同棲していたという、なんともいわくつきの場所である。




で、ここ神楽坂2-22が、前掲の詩「物理学校裏」の地なのだ。


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東京理科大学近代科学資料館
創立110周年を記念して、東京物理学校時代の校舎の外観を復元している。


物理学校とは、「東京物理学校」。漱石の『坊ちゃん』が卒業したことになっている旧制専門学校。1881年設立。あの吉田茂も卒業生である。





この詩は白秋が早稲田の英文科に通っていたころの作品なのだろうか(教えて、ちづりん)?

そもそも、故郷柳川の伝習館中学を、理数系科目の成績不振により落第した白秋がなにゆえわざわざ物理学校の裏に居を構えたのか謎であるが、そこから聞こえてくる専門用語を、あたかも妖しげな呪文のように仕立て、底暗く沈鬱な、頽廃的な詩に昇華したのはさすが白秋という他はない。天才に死角なし。わからないことはわからないということを主題にして、文学は成立するのである。




さて、白秋が「肺病院のやうな」とうたった「東京物理学校」とは、現在の東京理科大学。白秋旧居跡を示す案内板は、今、理科大の敷地内、入口脇に立っている。


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飯田橋側から見た東京理科大学。
春は桜並木が美しい。


わが家の娘も理科大1年生。理学部数学科で少々(かなり?)沈鬱な日々を送っている模様。理系の才皆無な私にはそれこそ魔術としか思えないような数式を解いている。




そんな娘が1日のうちの2食をお世話になっている学食の窓に、この「物理学校裏」が書かれているという。うーん…、食事中にこの詩を読んで食欲減退したりはしないのだろうか?そこはまあ、理系学生諸君であるから、そんなに真剣にこの詩を読むことはないのかしら?


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窓の向こうが工事中で読みにくくなってしまいました。
ごめんなさい。




でも、重度の福岡シックに罹患している娘には、白秋が身近に感じられるこの偶然がとてもうれしいようである。




コロッケは大野屋野菜はキムラヤと決めて月一訪ふ神楽坂



そこここに明治がにほふ神楽坂小路に打ち水の跡残りゐて


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神楽坂といえば毘沙門天、善国寺。
赤い鳥居がノスタルジック。






〈トリビア〉

知る人ぞ知る、なのでしょうが、「東京物理学校」創設者、寺尾寿(1855-1923)は、福岡藩士の子息で、現博多区中洲出身。藩校修猷館に学び、その後、東京外国語学校でフランス語を、開成学校で物理学を、フランス人レピシェから天文学を学び、東京大学理学部物理学科を卒業。後、フランス留学し、パリ大学で天文学と数学を修めた天才。

東京物理学校(東京理科大)と福岡、実は深い縁があったのです。


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by minaminouozafk | 2017-08-01 02:12 | Comments(7)