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岡幸江著『阿部ヤヱに学ぶ伝承の教育』 藤野早苗

この夏3週間にわたり、社会教育主事講習を受講しました。もう3か月も前のことなのかと思うと驚きますが、私の中ではいまだ色褪せない記憶として息づいています。


その講習の企画運営を担当されているのが、九州大学大学院人間環境学研究院教授、岡幸江先生。ご自身の講義や素晴らしい講師陣のご手配、宿泊研修、現地研修などの企画、演習ゼミのスーパーバイズなど、もうまさに八面六臂のご活躍。本当にいつお休みになっているのかとこちらが心配になりました。


そんなご多忙な岡教授、7月に30年にわたる研究の集大成、『阿部ヤヱに学ぶ伝承の教育』(左右社)をご出版。岡教授のご専門である社会教育について著された御本です。岩手県遠野のわらべ唄の伝承者阿部ヤヱ氏を訪ね、伝承(わらべ唄)にある教育(教え育む)を読み解き、「人の一生を育てる伝承」の重要性を説いてくださっています。教育の三本柱、学校教育、家庭教育、社会教育、そのどれもが危うく頼りない現況ではありますが、こうしてかつて地域がどのように人を育んできたのか、その一形態を長い時間の中での研究を通して詳細に著していただいたことで、一地域住民としての立場であっても社会教育に関わることは可能なのだと心を強くしました。


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さらにもうひとつ。本書第3章には「歌人・阿部八重をめぐって」というパートがあり、短歌に関わるものとしてはやはり心惹かれました。短歌と社会教育。そのふたつの融合は実のところ、朧げながら私自身の目指すところでもあり、本書にこのような章立てがあることを小さなシンクロニシティのように感じたのでした。以下、本文を引用しながら紹介させていただきます。


伝承者である阿部ヤヱが短歌に関わりをもった背景として重要なのは、昭和24年、農家を継ぐ者として高校進学を断念しなければならなかったことでしょう。ヤヱは地域の古老に〈伝承者〉の才を見出されたほどに優秀であり、本人も進学の意向を強く持っていたにもかかわらず、農をするには学は不要、女に教育はいらないという理由から進学を断念せねばなりませんでした。その後の結婚、20歳での出産、産後の長い体調不良、とヤヱの若年期は思うに任せない現実が続きます。そんな現実を抱えながら、ヤヱは伝承の継承者として揺るぎない自己を形成してゆかねばならない。そのヤヱの二面性にあるギャップについて、岡教授は着目し、「生身の人間としての阿部ヤヱ、彼女の本音に迫れる」ものとして短歌の存在に注目されたのでした。その経緯について岡先生はこのように記されています。


・いわば本章は、本人が伝えようとし、先人や他者も阿部に期待した伝承者としての「正史」に対し、結社誌にて都度発表されつつも、本人が意図的に家族や社会に示すことはなかった自己形成の「外史」である。(P129)

・阿部の場合、外に対するある種フォーマルな、未来に残していくことを意図した語りには、生活者としての自己の語りにおける限界がある。自らのおかれた立場や病に苦しみ葛藤を抱えていた彼女が、生身の自分を絞り出すように詠んだ短歌の中にこそ、自由な語りがあるかもしれない。(P130)


社会的立場という鎧が重くて、生身の自分との乖離に苦しむ時、短歌という小さな器はその苦しみを吐露するにはちょうどいい大きさなのかもしれません。ヤヱ自身は、「いつか伝承を本にするための文字を書く練習として短歌を学んだ」(P129)と言っていたそうですが本心はむしろ、現実と内実の調整弁として短歌を選んだのではないか、かつて同様の理由から短歌に関わった身としてはヤヱの短歌への近接についてそう思わずにはいられないのでした。


ヤヱが短歌に関わり始めたのは24歳、昭和33年の時でした。以後、60歳になるまで37年間にわたり、11の結社誌に作品を投稿、掲載されているそうです(P136)。当時前衛で知られていた大野誠夫の「砂廊」「作風」に10年投稿を続け、他結社でも活動していた(P137)ということから、これは本格的な作歌活動と言えるのではないかと思います。歌人として活動する際は「阿部八重」を名乗っていたとのこと。ここからも伝承者ヤヱと歌人八重の心的乖離が垣間見えます。


本書第3章「歌人・阿部八重をめぐって」は、

1 疾風怒濤期(24歳~27歳)

2 歌における安定期(28歳~35歳)

3 地域の表舞台へ(35歳~52歳)

4 語り部・阿部ヤヱの成立と「阿部八重」の終わり(53歳~60歳)

という区切りで、当時の八重の背景と詠まれた短歌を重ねることで、作品の意図とその作歌が八重にもたらした影響が考察されています。私自身は八重の作品を直接読んではいないので、本書からの引用に孫引き的な申し訳なさがあるのですが、その点をご容赦いただき、記述を進めさせていただければと思います。


・夜明けまで包まず語れ我は聞かむ鐘(鏡)の中の女の謀反(「芥子と疾風」『遠野文学Vol.12』196011月、26歳)

「疾風怒濤期」の作品です。深夜、鏡に向かい決して明かしてはならない本心をひたすら吐露する自らを鏡の中の女と客観視し、その行いを「謀反」と表現する。まさに「選ばれし伝承者ヤヱ」と生身のヤヱのギャップを克明に鋭く詠んだ一首です。


・蛭のいる沼田に素足沈むとき必死に掲げるものうちにあり(「農婦のうた」『造形』第4号・1962)

「歌における安定期」からの作品です。

巻頭30首の中の一首。この歌を含む巻頭一連からの引用作品5首について岡教授は、〈「農婦」としての日常をうたう一方、その枠におさまらない女性としての情念、病との対峙、宿命に自己を掲げようとする阿部が表現されている。しかしそれを「農婦のうた」として表明する。己を掲げる自分と、一方先人たちの「流れ」を引き継いでいこうとする自分の間での葛藤が伝わってくるようだ〉と記されています。掲出歌については、「蛭のいる沼田」という事実を詠みながらも、卓越した暗喩、象徴でもありうる初句、そこに踏み込んだ素足がズブズブとはまってゆく空恐ろしさとそれに抗おうとする矜持が詠まれています。「必死に掲げるものうちにあり」は短歌的表現という点からすると観念的という評を免れないのでしょうが、上句の強烈な具象がそれを補ってあまりある印象です。歌人としての八重の力量を感じさせる作品です。


・係りのなき故楽しく新鮮にひとの不幸があばかれてゆく(「冬の峡」『作風』昭和44年4月号)

「地域の表舞台へ」の時期からの一首。閉鎖的な農村が抱えるコミュティとしての問題が提起された作品です。こういう問題を認識してはいても伝承者ヤヱとしてはその葛藤を表現する手段を講じることは難しかったのではないでしょうか。しかし、ひっそりと歌人八重として、思いの丈を短歌として詠めば鬱々とした小暗い思想も文学として昇華し得たのではないかと思います。それがヤヱが長く短歌を手放さなかった理由ではないかと思うのです。

・自転車をつらねてをとめ(*ママ)の如くみな胸張り秋の野をひた走る(「小さき会」『北宴』no.236 1985年)

こちらも「地域の表舞台へ」の時期の作品です。前作とは随分趣が異なるのは、この2首が詠まれた間に、ヤヱ自らが率いて「まんずなる」というグループを結成したことが関係しています。これからは自身の思うところに従って、自在に邁進してゆく、そんな希望に満ちた歌柄です。ここに来て、八重はヤヱと輪郭を一にしたのかもしれません。人間の本姓的なものはそうそう簡単に変わるものではないけれど、ヤヱに新たな角度の視座が生まれたこと、その事実をここで確認させていただけたことを嬉しく思いました。


・しあわせの訪れににてすぐそこの川越え太き冬の虹立つ(「野に咲くままに」『北宴』N0.309 1992年)

「語り部・阿部ヤヱの成立と「阿部八重」の終わり」の時期の作品です。冬の虹の美しさを詠んだ一首ですが、3句「すぐそこの」がとても効いています。これから拓けてゆく自らの人生を寿ぐかのような太い冬の虹。ゆったりした韻律と描写は読み手にも大いなる安堵を与え、ある種の風格といったものを感じさせる作品です。

・陽あたりにあわあわととまり春を待つ蝶は聞きゐ(*ママ)む春の足音(「春の足音」『北宴』No.323 1994年)

こちらも同時期の作品です。そして、この一首を最後に、歌人阿部八重は歌壇を去りました。この時ヤヱ60歳。


こうして八重の歌人としての歩みを4段階に分けて考察した意味を、岡教授は以下のように記しています。


・阿部の自己形成における短歌の位置(P161)

阿部の自己形成の歩みにおいて、短歌が自分自身や仲間・社会に対するかかわりを表現しながら、彼女の生活実践において状況への柔らかな対処を担保する余白を、無数の段階性をもって与えたという点では一貫していたと思う。


ヤヱの短歌への近接の理由について「状況への柔らかな対処を担保する余白」、これ以上的確な表現があるでしょうか。31音で構成される短歌はまさに「余白の文芸」です。そのこと自体はすでに言い古された感すらありますが、ヤヱの生活実践の場における、自他の認識不一致の緩衝材として短歌という余白が必要であったとする岡教授の炯眼には深く首肯するばかりです。


たった一夏、社会教育の入り口をうろうろしたにすぎない私ですが、その世界の豊かさには瞠目させられました。本書『阿部ヤヱに学ぶ伝承の教育』における短歌の位置付けは、まさに「外史」なのでしょうが短歌に関わって30余年が過ぎた私にとっては、短歌が社会教育の窓口にもなりうるという可能性に気づかせていただき、本当にありがたく思ったのでした。


岡幸江教授、ありがとうございました。



   ふかぶかと秋は来てをり本を読む手元がすでに暗き午後五時



*8月6日、岡教授と受講生数人で、社会教育主事講習として毎年ご来福いただいている岸裕司さんを囲む食事会を開きました。岸さんとは前川喜平さんを介して数年前からご縁があり、この時も楽しい時間を過ごしました。この時、岸さん(ユーくん)が本書を鞄から取り出され、岡先生にサインを求められ、「いい本だねえ」とおっしゃっていたのが忘れられません。ユーくんはコミュニティスクールの第一人者であり、出版社「パンゲア」代表でいらしたのでした。

そのユーくんの訃報を先日、突然受け取りました。あんなにお元気で、来年もまた講師としていらっしゃると伺っていたのに……。信じられません。ご冥福をお祈り申し上げます。



   




by minaminouozafk | 2025-10-14 12:39 | Comments(0)