2025年 08月 15日
橘芳圀第一歌集『僧侶日日』 大野英子

コスモス短歌会、選者。今年八十歳になられる、戦後と共に歩んでこられた大先輩です。
1971年(26歳)から2000年(55歳)までの、教師と僧侶の、今風に言うなら二刀流の生活の中の多くの悩み、葛藤を詠まれています。
ずいぶん前、全国大会のときにお酒の席で、たまたま高野さんと橘さん、私と三人になったとき、高野さんは、私達二人に「もう選者なのだから、そろそろ歌集を考えたらどう」というお話をされました(のちに高野さんはそんなこと言ったかなぁって言われましたが)その時、橘さんは、ご自身の作品は檀家さんや本山には見せられないので、そのお付き合いがあるうちは歌集は出せないことを、きっぱりと言われたのでした。
今年の全国大会でお会いした橘さんは豊かな白髪を伸ばし、かろやかに一つに束ねる若々しくワイルドなお姿でした。歌集出版のお祝いを言うと、この髪が自由の印だと感じさせるように、朗らかでした。
二十代、教師としての作品から。
おほかたは食器工場の従弟なる子ら油手に期末試験受く
留年となりし生徒をまた一人クラスに加へ我が新学期
立ち寄りて金借りゆきしことのあり今は行方の知れぬ教へ子
だれよりも勉強をしてだれからも隔たりゆくか生徒の一人
当時、夜間定時制の担任をされていました。働きながら学ぶ生徒への温かい眼差しは、
出来の悪い子にも、出来が良すぎる子にもまんべんなく注がれます。
土俵割る力士が力を抜くごとく夜の寝床にわが入らむとす
喪の家のだれもがもてる悲しみに最も遠く僧我はをり
梵鐘に十万円を寄進せしその老の家富めるにもあらず
まだ、お寺は継いでいなくとも、寺の子としての宿命を背負いながら悶々とした日々であることが伝わります。
病室を隔て相病む父と祖父口利けぬ祖父を父は見舞へり
鐘楼に我はのぼりて住職の父の死知らす鐘撞き鳴らす
祖父と父一度に逝きてこの寺にとりのこされし我はひとりなり
心は揺れ動くまま、病床の祖父、突然の病の父を相次いで失います。淡々と事実のみを詠む一、二首、重圧を背負った三首目から、現実を捉え切れていない橘さんの困惑する姿が浮かびます。
先住の父より我が目険しきと酒に酔ひつつ檀徒の言へり
当院と呼び慣らされて父母も妻も呼ばざりわれの名前を
父逝きて住職名を空きとせる寺院名簿が送られてきぬ
住職にならずば汝この寺を出でゆけと言ひあと黙す母
父の霊祖父のみ魂の寄りどころ家とみ寺を護らむとする
迷いを見透かされているような一首目。聞きなれない「当院」は住職の跡継ぎの呼び名のようです。否応のない現実の中の五首目、橘さんは心を決められたようです。
封建制遺制の如きわが寺と僧の組織を憎めりわれは
平等を説けども本山本願寺金に塗りたる勅使門持つ
檀徒また寺に何すと思へざる本山の賦課金御依頼書来る
心を決めたものの、檀家への負担が大きい、本山と組織の在り方は橘さんの心を乱す一因でもあるのです。
喪の席に「白骨の御文」誦みをれば僧侶の我の心にも沁む
一生の幾千時間経を誦み畢へてゆくべし僧侶のわれは
亡き父が仏書に引ける傍線はわれに読めよといふ如くあり
父よりも己あざむき生きゆかな寺継げと言ふ父に背かず
それでも、蓮如上人の御文章に癒され、父の教えが橘さんを支えているのです。
「何言ってゐるか解らぬ」僧われが経誦む後に幼子が言ふ
誰一人解さぬ経を誦むことの嘘八百を並べるに似る
苦行終へ乳糜あまさず飲み乾しし釈迦を思へり朝餉の卓に
一首目の幼子のあけすけな言葉は、二首目の徒労のような思いを抱いてしまうのでしょう。三首目は、朝食の場においても釈迦の苦行と乳粥を差し出した娘へ思いを馳せています。
誰一人救ひたるとふ感なくて住職つとめ八年は過ぐ
法話なす僧侶は減りてなりはひに経誦む僧らいたく数増す
念仏に用なきものを本堂の屋根替の寄付乞はねばならず
死にたりし人の体に聴診器あてゐる思ひ枕経誦む
どう見ても道もとめるとに思へざる老らに法話なして疲れぬ
本山が送りてきたる小冊子檀徒ら読まず仏壇に上ぐ
檀家制ゆらぐなければまもられて僧らが生くる生のぶよぶよ
八年が過ぎても、虚しさは心を去ることは無く、その後も僧侶の在り方、檀家との埋まらない距離感に心を痛め続ける様子が、切々と詠まれます。
生まれきて七十日を経し吾子の白息濃ゆく見ゆるこのごろ
雪消えし土手歩かむと言ふわれにタンバリン持ち吾子のつきくる
帰りきて寂しきときは二人子をこもごも呼びて耳ほじりやる
思ひ出になさむと言ひて子が友とわが本堂に一夜泊まりぬ
一生は一度切りなり好きな道子よ学ぶべし寺継がずとも
むかひあひ食ふはよろこび腹へれど帰省せる子の起きくるを待つ
そんな橘さんの心を支えてこられたのは吾子への深い愛情だったのではないでしょうか。
一首目は吾子の確かな生命力を感じ、二首目はタンバリンの音まで聴こえて来るようなほほえましい早春の景。三首目は素直に膝に頭を預ける二人子との交流。そういえばわが家も耳掃除は父の仕事でした。どの作品も癒されるひとときが詠まれます。
四首から六首目は、学業のため離れて暮らす子への、あくまでも温かな親心が伝わり、寺のために犠牲となる苦しみは自分で終わりにしたいという決意が伝わります。
九十歳生きし親鸞その強き生命力ゆゑ信ずるにたる
五十歳時間が価値であるやうな授業なさむと子らにむかへり
伊夜日子を弥陀山と呼び村人ら土手にしやがみて入り日を拝す
折々に詠まれる親鸞への思いも、橘さんの心を支えてきたのでしょう。
年を重ねて、授業に向かうお姿にも、村人を見る視線にも、そんな思いと余裕が籠ります。
後半になると、前半はほとんど見られなかった叙景歌も増えてきます。
平にてその身やすらひ傾斜にてたのしむごとくくだりゆく水
水中の魚に水音 地表今われを慰撫して過ぐる風音
その中でも「水」十首連作が心に沁みました。その中の二首、穏やかなお心が伝わります。
七十四はや逝かれたる先生の黄金時代に選たまはりぬ
七月二十五日に紹介した木畑紀子さんも、宮先生から選を頂いたことが明るく窓が開いた時であることを書かせていただきましたが、橘さんにも大きな力となり、詠み続けることも宗教以上に救いになっていたことでしょう。
あとがきにも宮先生の作歌の姿勢がご自身の作歌の指針になっていることが記されていました。
今年六月号の「コスモス」には
水重く川底圧して流れゆくほとりの村に少年期果つ
声明が下手になつたね僧辞めしわが夢にきて亡き母言ひぬ
いとはしく捨てし在所は嫁ぎきし母が七十二年暮らしたる町
早死の父の知らざる還俗は長生きの母を悲しませたり
僧、教師夢中に過ぎてたまてばこ開けず覚めれば白髪の翁
と還俗されたお心を詠まれていました。この第一歌集は二十五年前で閉じられています。
まだまだ、六月号のお気持ちをうたに託せるまでには、大きな葛藤も慰藉もあったことと思います。
第二歌集も遠くない日に出版されることと信じています。心待ちに待たれます。
雨音が呻いてゐますわたくしのこころを揺さぶるほどの強さに

