2024年 11月 12日
川本千栄『裸眼』 藤野早苗
川本千栄さんの『裸眼』(角川書店)。
お送りいただいてすぐ読んでいたのですが、ようやく今日のブログで紹介することができます。
紹介が遅くなったのには、まず私の個人的な事情があります。公私ともに結構多忙な時期でした。でも、それ以上に考えたのは、この『裸眼』を純粋に文芸として紹介できるか、自信がなかったのです。まず、作品を引用します。
・盗んだものを壊して戻してくる人よ黒い何かのように黙って
・何もかも見ていたはずの椋鳥の群れに銀貨をユダの銀貨を
・ジョン・ロットンに汚く編曲(アレンジ)してほしい四人で踊るテネシー・ワルツ
・一つ咲けばいたいほど咲く朝顔の無かったことにはできない蔓は
・蔓を捨て時間を捨ててもう一度二人で春の球根埋める
・星のよう小さな白い朝顔が知らないんだねふふふ ふふ ふふ
・此処をこそ私の駅と決めた駅入り口さえぎるように木が立つ
・子を抱いた私と君が壁にいる裏返すとき錆びた画鋲は
・幸せな家族であったこともあるあの頃床にはレゴ落ちていた
作品の背景について注釈はしません。読まれて感じられたことが全てです。これらの歌は『裸眼』のテーマであるわけですが、実際のところこうした歌群を歌集に収録するというのは、作者にとっても勇気のいることだったと思います。実を言うと私はこのような点に短歌という文芸のジレンマを感じているのです。
短歌は私性の強い一人称の文芸だとよく言われます。その点では私小説と並び称せられることもある。けれど、短歌の場合、あまりにも個人の物語的要素が強く、しかもそれが読者の興味をあらぬ方向へ誘導するような内容だった場合、作品の完成度以前に作歌姿勢を問われるという事態が出来します。これは私自身が、娘の不登校について詠んだ作品を収めた第2歌集『王の夢』を出した時に実感したことでもあります。「そんなこと歌にする必要ある?」っていうことですね。『裸眼』作者川本千栄さんは「塔」の中心的歌人。そんなことはもう百も承知の上でのご出版だったことでしょう。熟慮に熟慮を重ねて、しかも時期を考慮しての出版であったことは、(おそらく)事態が発覚し、混乱が生じた初動の頃からかなりの時間が経過していることから推察されます。その間、幾度も行きつ戻りつして、やはり刊行という決断を下された川本さんに敬意を表します。
作品質も高い。これはとても大事です。私的事実をそのまま放り出されたら読むのもただただキツいだけですが、一首一首に読ませるための仕掛けが巡らされていて、(こう言うと失礼にあたるのかもしれませんが)上質な私小説を読んでいるような気持ちになり、ついつい感情移入してしまうのでした。
・裸眼で見る海の底にんげんの心の底のように荒んで
あとがきに「何年か前にコンタクトレンズをやめた。眼鏡はあまりかけず、ほとんどを裸眼で過ごしている。そのせいか見えないものもあった。見えなかったものを短歌の形で捉えたい、そう思って三年間、歌を作ってきた。歌集としてまとめることで、それらが形になればと思う。」とあります。淡々として辛辣。怖くて、だからこそ魅力的な人だと思います。
・何らかの意味持つ物語となして他人の生をわれら消費す
消費というより人生の滋養だったかな。同年生まれの私にとって『裸眼』は。佳き一冊をありがとうございました。
欠けていたピースがはまり紫野深き呼吸(いき)して『裸眼』閉ぢたり


