2023年 12月 05日
松村由利子さん公開講座レポ 藤野早苗

こちら、松村さんがご用意くださったレジュメです。


◇変わりつづける「わたし」
このセクションでは、時代によって「わたし」の認識はどう変わってきたのかについてお話しいただきました。万葉集から古今集にかけて、時代が降るにつれて「われ」の使用頻度は下がっています(40%→8%)。その激減の理由は、松村さんによると、
・万葉の時代は歌は声に出して詠むもので、「われ」を表す「あ」「わ」の強い韻きは一首のアクセントとして句頭に置かれることが多かった。
・海外から文化が流入し、都市が形成され、貨幣経済の成立した万葉の時代を生きるには、一際強く「われ」を意識する必要があったが、時代が下り、様式美を重んじる古今の時代には、「われ」を主張しすぎることははしたないという意識が芽生えた。
これ、とても興味深いご考察だと思いました。
それから、人麻呂や憶良の歌に詠まれた「われ」についても、地霊や地神に挨拶する人心の総意としての「われ」や宴席を盛り上げるための演出された「われ」という、個につかない「われ」があったのではないかという分析も面白かった。なるほどなー。
では、それからさらにさらに時代が下り、〈現代の「わたし」〉はどういうふうに認識されているのかというと、
・科学的知識の共有によって変わる「われ」。片岡作品には、人間の体細胞は約6か月で入れ替わるという科学的事実を踏まえ、なのになぜ自分の心は変わらないのかと疑問を投げかけます。日高作品は「死」という現象を「細胞膜きえはてしのち」と、科学的眼差しで捉えて表現し、その下句では一転「海霧としてきらきらと在る」と抒情的に一首を収めて絶妙なバランスの作品に仕上げています。定綱作品、丸地作品、大滝作品の理解にはやはり現代の科学的知識は不可欠(腸内環境、腸内フローラ、人間は遺伝子の乗り物……など)で、20~30年前なら詠んでも理解されなかった作品。それだけ科学的思考は私たちの生活に不可欠のものとして存在し、それが現代における「わたし」の認識の根っこになっている。『パン屋のパンセ』の杉崎さんは天文台勤務だった方。この科学の粋とも言える環境に身を置いていた人がこんなに詩情豊かな作品世界を構築する不思議。科学と短歌(詩)、この二つの世界の繋がり、やはり興味はつきません。また「私」「わたくし」「おれ」「ぼく」、現代における「われ」を表す言葉は多種多様で、どれを使うかにもすでに「われ」の萌芽があるというご指摘、確かにそうですね。
◇さまざまな人間観
このセクションは、人間を人間たらしめているのは何かという観点からお話しいただきました。「笑い」「さびしさ」「白目」「唇」(これは哺乳類にはある)など、人間のみに独自に与えられたもの、それがあるゆえに抱えざるを得ない葛藤や苦悩、そうしたものに向き合う時に意識される「われ」にフォーカスした作品をご紹介いただきました。築地作品からは、自然界の中での人間の異質さを、笹井作品については一見難解だけれど、その解釈鑑賞は科学の置かれた状況、経験値によって変わるし、それによって読者に喚起されるものが違ってくる、と指摘されたのはとても参考になりました。私たちはあまがえるを下等な生き物と認識しがちだけど、科学的にはただ単に「進化史上で」「別れた」だけ。そこに優劣はないのだと思うと「お前」呼びは親しさの証なのかなと、そんな解釈もできるわけです。
◇男女って何だろう
ここしばらくジェンダーについて考えることの多かった最近の私にとても響いたセクションでした。松本作品の「Y染色体」、以前は1000ほどあったそれは今や50しかないのだとか。その事実を絶妙な二物衝突でさりげなく詠んだ一首。重い事実を重く伝えるより、さらりと軽く……の方が時に凄みが出ますよね。2000年に出版された大滝さんの『人類のヴァイオリン』から今年詠まれた橘さんの一首まで、この約四半世紀の間にジェンダーをめぐる問題は科学的知見を得て大きく変容しました。感情論で展開すると煮詰まっていく問題も遺伝子や環境要因という科学的分析に依拠した理論構築をすると新局面が展けてゆく。結果、生きやすくなる人がいるならそれは科学の功績ですよね。
◇地球の現状/未来
・これこそ「科学」が本領発揮するセクション。伊藤作品の結句「いま生(あ)るる赤子」について、作者はそれを悲しんでいるのか、嘉しているのかについてしばし考えました。松村さんが採られた読みは後者。下句の字余りは意図的に、ゆっくりした韻律で読ませるための仕掛け、さらに「いま」「生るる」「赤子」とア音の明るい韻きを連続させることで、次世代に繋がる希望を象徴的に表現したのではないか、そうお話しされました。同感です。しかも作者はあの伊藤一彦さんですから。香川作品にある「薄氷」。「薄氷を踏む」は既視感のある慣用句だけれど、この場合は気候変動で海面上昇したこの世界の実態をも掬っていて、慣用句でありつつ過不足ない事実を伝える表現となっている点をご指摘くださいました。科学を詩にする力、やはり作歌力なんですね。「知」のみでは詩情は醸されない、そういうことです。
◇日常の中の不思議
・これこそセンス・オブ・ワンダー。どれもなるほど!なんですが、特に松村さんのライターとしての姿勢に感銘を受けたのは平山作品について。この作品、『科学をうたう」には採録されていないのだそうです。それは、現象としては確かにそうなのだけれど、根拠となる論理にまだ出会えていないからなのだそう。テーマはもちろん「〜ため」「〜ため」というリズムの妙など、採録したくてたまらなかったけれど断念せざるを得なかったので、レジュメに入れたとのことでした。
◇私たちと科学
・ここに引かれた二首、昨今の人間の驕りに対する痛烈な一撃です。森川作品の「知らぬこと解らぬこと」それを探究するのが科学であり、人間。その先にはまた新しい世界が展けていておしまいがない。短歌の世界も同じ。これまでよしとされていた表現が、時代の変化にしたがって古びてしまったり、自分自身の変容によってダメだと思うようになることもある。科学も短歌も極めつくすということはできない。科学による自己認識・世界認識の変化、それとともに変わる短歌の世界をこれからも探究し続けたい、その言葉に深く深く首肯いたしました。
ほそき指胸びれのごとひらめかせ科学を語るいのちを語る



丁寧なレポ、感謝です。
科学に弱い私には瞠目のお話でした。
つぎは是非。E.

