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赤尾兜子と百首詠  藤野早苗

 ゴールデンウィーク、緊急事態宣言は出ていなかったものの、新型コロナウイルス感染者数は500/日を超えている状況で、これはもうまさに自粛の日々を過ごすしかないという感じの福岡。どうせ遠出もできないし、友人知人にも会えないのなら……と短歌つながりの友人三人と百首詠を試みた。友人とは、「八雁」の小田鮎子さん、「未来」の竹中優子さん、「心の花」の古島信子さん。

 昨年11月のシルバーウィーク期間中にもこのメンバーで百首詠に取り組んだ。その時は三日で百首。とんでもないなあと思いつつ、まあできる限りでいいからというゆるい縛りだったおかげで、気負わず詠めた。とても無理だと思っていたのに、なんと三日目、見事百首が揃い、われながら驚愕したのだった。

 この「百首会」には暗黙のルールがある。それは、まず、あらゆる意味で無理をしないこと。百首詠とはいうものの、無理に百首揃えなくてもいいし、秀歌を揃える必要もない。結果的に秀歌であるのはそれはもうウェルカムだけれど、それを詠むことが目的ではない。

 では、この百首詠の目的は何なのか。それは、(ちょっと大袈裟だけれど)未知なる自分に出会うこと。短期間で百首詠めと言われたら、その百は当然玉石混交。箸にも棒にもかからないような作品がいくつもできてしまうのだが、実はこれが大事。窮鼠猫を嚙むの謂のごとく(いや貧すれば貪すか火事場の馬鹿力か)、人間追い詰められて初めて開花する能力もある。意識下にひた隠しにしていた本音がむき出しになり、歌の出来としては極めてお粗末なのだが妙に力のある作品が生まれてきたりする。この自作との思わぬ出会いこそが百首詠の醍醐味なのだ。

 百首詠期間中、時折メールで互いの進捗状況を知らせ合う。これがまた面白い。誰かが二日目にして半数以上できたと言えば、素晴らしいと心底思い、では自分も頑張らねば、と励みに思う。また、なかなかできなくて、という友がいれば私もです、と心を通わせ、どうしたものかと一緒に考える。

 そんな経緯の中で出会って、私にはとても新鮮だったのが「言葉を拾う」という表現。途中経過報告メールの中で、まず優子さんが「今、いろいろな方の歌集を読んで言葉を拾っています。」と発信されたところ、鮎子さんから「私も今言葉を拾っているとこです。」というレスポンス。

 「言葉を拾う」。なるほどなあ。作品がなかなか立ち上がらない時、何かの力を借りることがある。それは誰かの歌集だったり、図鑑だったり、場合によっては辞書だったりすることもある。自家中毒を起こしかけている心をいったん解き放ち、自由に遊ばせ、琴線に触れた言葉を蓄える。軽々と作歌しているように見えて、みんなそうやって努力しているんだなあ。

 私が言葉を拾わせていただくことが多いのが葛原妙子、塚本邦雄、新古今和歌集、クリムトあたりだろうか。抽象性が高いものの方が心を飛ばしやすい。その点から言うと、最近読んだこの一冊は創作意欲を素晴らしく刺激するものだった。

赤尾兜子と百首詠  藤野早苗_f0371014_08541444.jpg


 藤原龍一郎氏の『赤尾兜子の百句 異貌の多面体』(ふらんす堂)。俳句については全く無知な私。赤尾兜子もこの本で初めてその存在を知ったという体たらく。でもかえってそれがよかったのかもしれない。「異貌の多面体」と称される兜子の異才に引き込まれ、ぐいぐい読み進んでしまった。藤原氏が選んだ兜子百句の中から数句引く。

・秋炊ぐ聖書に瓦斯の火がおよぶ  『蛇』
・鉄階にいる蜘蛛智慧をかがやかす 『蛇』
・ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥  『虚像』
・大雷雨鬱王と会う朝の夢   『歳華集』
・こがらしが像(かたち)のみえぬもの吹けり  『玄玄』
・音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢  『蛇』
・戦どこかに深夜水のむ嬰児立つ  『虚像』
・壮年の暁白梅の白を験(ため)す 『歳華集』
     *引用は掲載順。

 赤尾兜子については、藤原氏のあとがき「異貌の多面体ー赤尾兜子の俳句」に詳しい。興味を持たれた方はぜひこちらをお読みいただきたい。私には俳句の世界における兜子の業績や位置づけに言及できるような知識はない。この異才の俳人のイメージの飛翔力と、それを読み解いていく藤原龍一郎の鬼気迫る筆力にただただ圧倒された。

 見開きにした状態で、右ページに記された一句をまず鑑賞する。難解ではあるけれど、とてつもなく魅力的なその一句を味わうにはかなりの時間を要す。自分なりの解釈をしたところで、左ページの藤原氏による鑑賞文を読み、ああなるほど、この句はそう読むのかと確認する。こういう風に惜しみつつ読むものだから百句の鑑賞がなかなか進まない。一冊を読むのに随分時間がかかってしまった。実に滞空時間の長い本だった。

 たとえば上掲三句目、「ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥」、この一句はどう鑑賞すればいいのか。私が想像した景は、「描いては消し、消しては描きを繰り返すうちに消しゴムはささくれ立ち、描かれるはずだった鳥はとうとう紙の上に姿を現さないままになり、その不全感が兜子にこの句を詠ませたのであろう」というもの。それに対して、藤原氏は、「ささくれだった消しゴムは役に立たない。消すべきものを消すことができない。その夜に鳥が死にゆきつつあるのだ。鳥もまた不全感に満ちている。俳句という詩形の可能性を拡大するべく試行錯誤していた時期の作品であり、表現上の格闘の心理を映し出した一種のメタ俳句の趣きもある。」という鑑賞文を書かれている。

 なるほど。私は一句に詠まれた消しゴムと鳥を、一枚の画用紙の上の並列的な存在として読んだ。その方が整合性があると思った、というよりそういう読みしか思いつかなかった。けれど藤原氏は鳥を実在の、どこかでその夜、死にゆきつつある鳥として、時空の広がりのある作品として鑑賞されている。鑑賞により一句がゆたかに肥えている。

 どちらが鑑賞として正しいのか、というとおそらくその答えはない。作品として世に出た以上、どう読まれてもそれは作者の関知するところではない。鑑賞に最適解はない。だからこそ読み手の力量が大事になる。

 兜子の俳句の表現手法として知られるのは「第三イメージ」。それは「二物衝撃という具象と具象をぶつけあって比喩を生み出す従来の俳句技法を一歩進めて、第一の比喩と第二の比喩を衝突させて、第三のイメージを産み出す方法」(あとがきより)で、だとすれば、さきの「ささくれだつ消しゴム」も「死にゆく鳥」も実態のない比喩として読んでも間違いではないのである。

 こんな風に一句一句立ち止まって解釈を試み、後に藤原氏の鑑賞文をじっくり味わうという至福の時間を過ごしていると、無性に歌を詠みたくなった。ふだん全く使っていない脳の一部分がいたく刺激を受けた感じ。こんな感覚、久しぶり。

 いい歌を詠もうと思いすぎるあまり、近視眼的になってしまっていた自分に気づく。そもそも「いい歌」って何なのか。自分の狭い見識の中で良し悪しを断じたところでそれは意味のないことなのではないか。異貌の俳人赤尾兜子の作品、しかも兜子の俳句結社「渦」の同人、藤原月彦としての藤原龍一郎が選んだ百句を読んでそう思った。もっと自由に、自分のイメージに忠実に作歌してみたい。怠惰な私の背中をぐいと押してくれた、そんな読後感の一冊だった。


  あたらしきわれは研がれしはさみもてきのうの薔薇の花首落とす




 

Commented by minaminouozafk at 2021-06-09 00:10
刺激的な一冊です。楽しいけれど難解な俳句に解説があると、ますます世界が広がりますね。
自分の世界を広げるために、多くの作品や批評と出会いたいと思っています。ありがとう。E.
Commented by minaminouozafk at 2021-06-11 21:00
百首詠、湧き止まない泉のようですね。尽きたと思うところから出てくるもの…。興味深いです。「量は質に変わる」という言葉も思いました。赤尾兜子の「第三イメージ」という手法、新鮮です。他の句の解説も読んでみたいです。ご紹介ありがとうございました。Cs
Commented by minaminouozafk at 2021-06-12 15:26
「言葉を拾う」という作業の中で自分の言葉に行きあたるのかもしれませんね。もともと語彙力の薄い私には大切なことだと思います。6日の朝日歌壇で葛原妙子の紹介がされていて興味を持ったところでした。Y.
Commented by minaminouozafk at 2021-06-12 18:46
百首詠に取り組むエネルギーにまず圧倒されます。尽きたと思うところから自分の知らない自分に合えるのですね。高野さんが言われる推敲の楽しさにも通じるみたい。兜太の「二物衝撃」新鮮な衝撃です。A
Commented by minaminouozafk at 2021-06-13 11:10
研がれたあたらしい早苗さん魅力的です。赤尾兜子はじめて知りました。言葉を拾う…積極的にさがさなくては…百首詠への挑戦すばらしいです。N.
by minaminouozafk | 2021-06-08 08:54 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(5)