人気ブログランキング | 話題のタグを見る

朝比奈美子第四歌集『黐の木』  大野英子

朝比奈美子第四歌集『黐の木』  大野英子_f0371014_06415641.jpg

コスモス、そして「灯船」の前身である「棧橋」時代のお仲間。年齢は私の二歳年上ですが、昭和五十七年にコスモスに入会され、すでに歌集は三冊刊行されています。


今歌集は平成二十四年から、約七年半の作品から四一七首をほぼ年代順に収められています。前歌集『水の祈り』のなかに〈鬱の子も年寄りもゐるこの家にけふの米研ぐ音いさぎよく〉という結句から、作者の姿勢がみえる作品が詠まれていましたが、本歌集でも「高齢の親と療養中の家族をかかえ、私はこの時期、月二回の歌会に行く以外にはあまり外出をせずに過ごしました」とあとがきに書かれるように、歌集は日常詠の中に、ご家族と、朝比奈さんを支える短歌に関する作品を中心に詠まれています。

夜の壁に打たむと握る鉄の釘指に金属の冷え伝はり来

釘を打つ金槌、居間にひびきつつ夜のさびしさ広がりゆけり

巻頭に置かれた二首。夜に釘を打つ行為は、ふと思い立ったものかもしれませんが、一首目の握る釘の金属の冷え、二首目の金槌の音とともに広がるさみしさは、導入の作品として、何かただならぬ気配を伝えています。


生きてるといろんなことがあるのだよ子に言ひながらみづからに言ふ

信頼も度を越せば人を傷つけて深夜に目覚む三時また四時

わが受けしことばは空の風に言ひ母なることをわすれむとせり

水の無きプールの底に枯れ葉みえ冬は寂しも父とゆく苑

前半に置かれた家族詠。紹介した第三歌集の作品から深刻化してゆく一~三首は鬱のお子さんとの接し方の悩みや逡巡を、四首目は年老いてゆくお父上との日常がどちらも巻頭の「金属の冷え」と連なるような微かな心細さを感じさせて詠まれています。


わが庭にふかく根を張る黐の木の梢照らして白き月あり

題名ともなった、歌集前半に置かれた「黐の木」の一首。あとがきに書かれる「どれだけ励まされ、また慰められてきたかわかりません」と書かれる思いが伝わって来ます。


保護色はそらのみづいろ すこしなら詠んでいいのだココロの闇も

あるときは薬師(くすし)の心もつものとみそひともじの器をおもふ

えんぴつは〈ただ、在る〉だけであたたかくバッグにもてり風寒き日も

もうひとつ朝比奈さんを支えている短歌に関する作品を挙げました。思いっきり辛さを吐き出すのではない慎ましやかな朝比奈さん。空の色を保護色という表現にも救いが感じられます。また、痛みを大きく癒し、包み込む器である三十一文字。バックに忍ばせておけば、いつでも思いを書き留めることが出来る鉛筆の存在への安堵感。どの作品にも信頼という思いが感じられます。


不思議なることにてあれど家族より歌の友らがわれをよく知る

「先生」と呼べばふたつのS音が流沙の砂のやうにひびけり

逢ひたくばここにおいでといふやうに君の歌あり歌集のなかに

きしさんがハモニカ吹けば批評場の(かど)ある空気なごみゆきたり

短歌にまつわる作品の中には、お仲間との交流も多く詠まれ、あとがきの「月二回の歌会」がどれだけ朝比奈さんを支えておられるか一首目から伝わります。

それでも、親しければ親しくなるほど辛い別れがやって来ます。

二首目は田谷鋭氏の通夜の席での作品。柩の中の師への声かけからとてつもなく広大な砂漠にとり残されたような悲しみに包まれます。三首目は柏崎驍二氏の訃報に接した一連から、柏崎さんのお人柄が伝わって来て読者である私も包み込まれるような一首です。四首目は支部のお仲間のきしすすむさんとの思い出。どの方も連作で丁寧に詠まれ、故人への思いの深さが感じ取れます。


きそも笑みけふ笑み明日も笑むならむ記憶失せたる父のくちもと

ちちのみの父はわたしの手を握り「楽しいことを話そう」と言ふ

延命の措置はいいですソレヨリモ意識アルウチ穏ヤカナ死ヲ

窓の外に十月十日の空澄みてもう息をせぬ父よこたはる

祭壇の父は鴨居の父となり七七日(なななぬか)後の部屋のかびろさ

死してまた父は陽気な人となり星の光ればこゑ降るごとし

別れの哀しみは父との間にも訪れます。だんだんと記憶の境が朧になっても優しさは忘れなかった父。五首目の忌明けに中陰壇を片付けたのちの部屋の広さは心の空白感にも繋がります。折々に思い出や感慨を詠まれますが、六首目から本来は明るい方であったこと、だからこそ介護の中に寂しさ、心細さが付き纏っていたことが、明らかになります。


朝比奈さんはピアノもこよなく愛されているようです。そんな朝比奈さんだからでしょうか、作中には音に関した、感性が研ぎ澄まされた作品も多く印象的でした。


目閉づれば川音低し目開くればふたたび高し川は生きてゐる

国道をとほく車のゆく音も梅咲くけふは耳に優しき

やはらかきホルンの音色おもふかな書架ある窓に虹見ゆるとき

座をはなれ夕餉の仕度はじむれば耳にやさしも菜刻む音

灯を消して花と花瓶と本たちのひそけき息を聞きつつ眠る

枇杷の実の豊かに()れるひとところ音あるごとし風かよふとき

大気うつ雪融け水のきよき音を耳病むわれは心にて聞く

立ち止まりポストに封書落とすとき声ありとほく空のうへより

炎暑日を清しくするは研ぐ米と水より()るる硬質の音

川音から生命力を感知する一首目。続く作品では、生活の中の音も、心で聞きとめる音も敏感に、そして静かに感受して作品に落とし込んで慰藉されてゆく思いが託されています。


うつくしき「ひ」の文字ありぬ生き生きて百二歳なる祖母の日記に

最後まで御襁褓拒否して逝きませり明治生まれの一〇三の祖母

道の辺に媼のひさぐ柿の実は祖母にもらひし手袋のいろ

花鋏しまひて冬の一日終ふ温きことなり人と暮らすは

他にも、ご長寿の末に逝かれた祖母への思い、多少の齟齬はあっても家族のある温かさを実感される作品も心に残りました。


炎暑日に日傘をささず外出して八十五歳の母に叱らる

老い深き母に向かひて偉さうにものを言ふこと多くなりたり

紅鮭のその炙り身のくれなゐをははに差し出すご飯にのせて

九十七の姑ゆつくりと立ち上がる いのち(いと)しむやうにゆつくり

ひだまりに姑の白髪梳きながらわれの手指も春光を浴む

父を亡くされた後には〈父ふたり亡くてふたりの母病むに庭の黐の木ゆふべを匂ふ〉と詠まれるように、娘として、長男の嫁として二人の母の介護に入って行きます。

「母」と「姑」を詠まれる作品から。まだお元気なころは子ども扱いされていても、だんだんと母子の立場が逆転してゆく様子や、緩やかに過ぎてゆく時間が丁寧に切り取られています。題名となった存在感豊かな庭の黐の木から折々に励まされるような思いなのでしょう。


林道の道を歩みてゆくわれを振り向かせたりヒガラのこゑが

花散りて季節移れるこの町に朝採り玉葱十キロを買ふ

巻末に置かれた春の歌二首。さまざまな思いを抱え、高音のヒガラの声にふとわれに返った一瞬や、地場産の玉葱を大量に購入する前向きさに、安堵感とともにエールを送りたい。そう思わせてくれる一冊です。


朝比奈美子第四歌集『黐の木』  大野英子_f0371014_06414410.jpg

今日は啓蟄。わが家のシンビジウムも少しずつ開花してきました。


いのち溜めはなひらきゆく春がくる父の命日ちかづく春が


Commented by minaminouozafk at 2021-03-05 21:16
英子さんのご紹介ですっと読んでしまっていた作品の魅力に改めて気づきました。音楽への愛とともに生活の音を詠まれた作品の繊細な感性。思いが静かに伝わってきます。歌集を読むたびに違う作品に立ち止まりました。さまざまな角度からのご紹介にまた、歌集を広げています。Cs
Commented by sacfa2018 at 2021-03-08 01:27
お父上を詠まれた作品の鑑賞が英子さんならでは、と思いました。深い読み、ありがとうございました。S.
Commented by minaminouozafk at 2021-03-09 13:24
ご紹介ありがとうございます。金槌の音、水の音、ハモニカ、ヒガラの声…いろいろな音が残っています。お父様の作品じゅわっと心に沁みていきました。N.
by minaminouozafk | 2021-03-05 06:44 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(3)