2021年 02月 19日
臼井良子第一歌集『亜鉛華』(柊書房) 大野英子
コスモスのお仲間から送っていただいた歌集を読めないまま、三か月を過ごしてしまいました。体調も戻り、眼鏡も新調しましたので、心新たにしっかりと読んで、ご紹介したいと思います。
先ずは、神奈川県在住の臼井良子さん。お若い頃、十年程「青藍」のちの「草木」で学ばれ退会。その後、カルチャーセンターで高野公彦氏と出会い、まもなくしてコスモスに入会されています。幸せな出会いですね。
コスモスに入会された二〇〇五年、六十二歳から昨年六月までの作品の中から高野氏の選による四八三首を掲載されています。
富良野岳の稜線に出て見おろせる〈原始の森〉は熊の楽園
巻頭一連の一首。臼井さんはあとがきに、登山と短歌を「日常生活からの避難」と記されていますが、北海道、山形、栃木など、何度も山中を巡り、作品化されています。この一首は稜線から眺める原始が原と呼ばれる自然豊かな森とそこに暮らす熊の幸福と人間との棲み分けを思い浮かべているのでしょう。共存共栄を意識した、優しさが感じられます。
そんな臼井さんの登山の様子や、自然に向けられた視線から。
うすべにのひめさゆりの花雨にぬれガラス細工の如く透きたり
這松の樹かげを好み地に這ひて二輪一対のリンネ草さく
人のこゑ駒鳥のこゑおぼろにて雨に聴覚かすみて歩む
十時間雨に洗はれ登山靴重く歩めり同志のごとく
素のままに芙蓉は白く小さく咲きやがて地に落つ 深みゆく秋
一首目、絶滅危惧種のひめさゆりとの邂逅を美しく詠むことにより出会いの喜びが伝わり、二首目、針葉樹林の下に生育する高山植物のリンネ草の山でなければ発見出来ない一首。連作の三、四首目は十時間に及ぶ雨の登山に耐える様子と、頼るものはご自身と登山靴のみであるという臨場感溢れる二首。五首目は北海道での連作から。夏の花である芙蓉も北の国では、花どきが終る頃には、秋の深まりが感じられるのでしょう。
前述の「日常生活からの避難」の言葉では括りきれない登山と自然への愛が感じられる作品群が前半に並びます。
自然を愛する臼井さんは生活の中でも、敏感に季節を感じ取られています。
水にごり草流れきて川かみの調整区域の田植はじまる
はらわたの求肥の甘くしなやかな一匹の鮎 水無月の菓子
目を閉ぢて虫のめざめをしんと待つ小啄木鳥もわれも一つの命
一首目、街中でも自然を残す調整区域で田植えが始まる様子を、濁り水とそこに混じる草を捉える。二首目、博多では〈若鮎〉の名の季節限定の和菓子ですが「はらわたの求肥」と「しなやかさ」から季節感と共に食欲を掻き立てる具体が効いています。三首目は不思議な作品です。虫が騒ぎだす春を待つ真摯な姿が浮かびます。自然と深く接してこられた臼井さんだからこそからだで感じる「虫のめざめ」でしょう。餌となる虫を待つコゲラの命を並列に提示することにより命の尊さを感じさせてくれます。
母生まれし地頭屋敷の庭の木々語部ならむ白き花散る
母の忌の写経をしたり離り世の〈天上大風〉のびらかにあれ
命を見つめ、思う姿は、亡き人へも温かく注がれます。一首目は「母の故郷」の一連から。「ゐろり端」も登場する地頭屋敷であった母の生家の木々を語部と詠まれる臼井さん。過去を巡りながらじっと耳を傾ける姿が浮かびます。二首目は良寛和尚の言葉。天上で自由自在であれという母への想いが伝わって来ます。
アンゴラのセーターにつく柔らかな姉の髪の毛寒風にとぶ
紅梅の一輪ひらく寒の朝メールを送る姉はいまさず
淋しさが淋しさを消しゆくやうに残雪の上に雪またふりぬ
まめに連絡を取り合っておられた一人暮らしの姉がお亡くなりになられた時の一連。果たせなくなった先の約束や共に登った登山の思い出など細やかに詠まれ哀切な一連です。
節つけて〈かんたんごはん〉唱へつつ油揚を焼く夫の気まぐれ
炎昼にコロッケ、メンチ揚げたてをはふはふ食べる夫の食欲
ざつくりと捏ね上げ温きそばがきを二人で食べるバレンタインデー
折々に詠まれる夫へ注がれる眼差しも温かく見守られ、がっちりと胃袋を摑んでいる家刀自としての姿が浮かんで来ます。
流紋の青あをひかる寒鯖の脂によどむ出刃包丁は
茗荷、葱、青紫蘇の香よ一握りの薬味のやうに日々を生きたし
別の名は油坊主のおしつけを嚙めば噛むほど脂のうまし
さらさらと大根下して牡蠣洗へば雪解け色の亜鉛華まじる
そして、随所に見られる、家刀自として本領を発揮される美味しそうな作品も歌集の中で一つの核を成しています。一首目は地元で水揚げされた松輪鯖でしょうか、脂ののった寒鯖の描写に大海原を泳ぐ鯖の姿まで思い浮かぶようです。二首目は、決して主役ではないけれど必要不可欠な薬味に自身の生き方を重ねられ、矜持が感じられ、食を大切にしている日常も伝わって来ます。三首目はやはり地元特産のギンダラ科の大形魚への愛。四首目は歌集名となった作品。牡蠣に含まれる重要な栄養価である亜鉛の「亜鉛華」という言葉との出会いから丁寧な下ごしらえの中に、春の訪れと愛おしむ姿が浮かんで来ます。
叙景歌や身の廻りのご家族を詠むことが多かった作風に、後半に入ると広がりが見られてきます。
アフリカの大草原のジラフの群れ走るを見たし眠るを見たし
小題「麒麟」の一連五首は姉の手作りのマクラメ編みのキリンから、大草原のジラフ、日光東照宮の国宝の門の霊獣や、拝殿の麒麟の図まで空想を広げてゆく題詠的な意欲作。
ラテン語のゲニウス・ロキを思ひつつ番町麹町を歩めり
露伴死後、文、玉、奈緒と山の手の東京言葉美しく継ぐ
東京で最古のお屋敷街での連作。「ゲニウス・ロキ」は地霊の意味と添え書きされる一首。続く一首は、エッセイストの青木奈緒まで、受け継がれた幸田家の血脈のなかの東京言葉に注目し、歴史の中に宿る地霊を感じ取っています。連作中には「今昔の格差」にまで視点を広げ社会詠的切込みも鋭く、前述の「母の故郷」の作品同様、日本文化への興味も深いことが感じられます。
みやびとの髻華をかざして狩りしたる蒲生野の風えごの花散る
粟津野の芭蕉の花穂黄に垂りて「はせを」のみ墓いまは町なか
一首目は蒲生野での額田王の一首「茜さす紫の行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」が思い出され、神が依る神聖な植物を身につけて呪術的な加護を得るという髻華を詠み込むことにより印象的に薬草狩りの世界へ引き込まれます。二首目は古くは粟津ヶ原と言われ旧東海道に沿い、かつては琵琶湖に面した景勝の地であった地の芭蕉の墓を訪ね、時代の移り変わりを思っている。二首とも「散るえごの花」と「垂れる芭蕉の花穂」が一首を印象的なものに仕立てています。
限りある七十六の老い力四国遍路を発心したり
歌集後半に置かれた一首。登山の代わりに思い立った四国遍路の作品が楽しませてくれますが、程なくコロナ禍により三十三カ所目で中断されることになります。
傘立ての金剛杖よ四万十の橋渡るとき肩にかつがむ
それでも、このように力強い思いの作品が巻末近くに置かれます。コロナ後の再開と新たなお作品を心より楽しみにしてお待ちいたします。
お櫛田さんの河津桜
まづひかり溢れて春が来る予感みあげる花は風に煽られ
登山の作での植物のひそやかな美しさやお料理の作の臨場感。目の前に映像が浮かんできました。額田王や芭蕉の作品も陰翳が感じられ印象深いです。様々な角度からのご紹介で作品の魅力がいっそう感じられました。ありがとうございます。Cs
一気に読みましたが、また読み直します。Y.