2020年 12月 20日
COCOON Issue18 大西晶子
この3日ほどひどく冷えて来た。ことしもあと11日になったが今日は今年最後の締め切りが3つ重なっている、他にもしなければならない家事などもあるので慌ただしい。昨日そこに「COCOON]18号(と呼んでも良いのだろうか?)が届いた。当然だが届いたものは時間がなくても開いてみるし、開けばつい読んでしまう。それで散文のいくつかのページを啄むように読んでしまった。
評論「子どもと短歌―白秋と児童詩論を読むー」筆者田中泉 を興味深く読んだ。
朝日新聞の「巣ごもりに短歌はいかが」という記事から馬場あき子の「子どもは常に新鮮にものと出会っているから、言葉に、驚きや発見がある。子どもにならって、心を動かされたことから入ればいい」という歌造りの勧めが先ず紹介される。
一方白秋は大正期にすでに自由で自然な子どもの表現から学ぶという言う自由教育思想の影響を受けていたが、子供たちに詩を作ることを推奨しながら、短歌をつくることは勧めずむしろ否定したという。子どもが自身の感動を表した言葉はおのずからリズムをもち、そのままで詩になっていることを発見し、児童の「自由詩」を高く評価した。
茂吉と尋常小学校5年の子どもの短歌を並べ「茂吉氏のはその背後に深い鬱悶が潜んでゐますがこの児童のは無邪気に観るものを観ているといふだけです」と指摘した。
この点について児童文学研究者の立場から藤本恵氏に「子どもらしく『観たまま』を表現すれば『深みはない』と軽んじられ、表現技術を磨けば子どもらしくないと非難される。白秋という権威による二重基準が有効である間は大人と子供の上下関係は覆らない」と批判されていることが紹介されている。
しかし白秋はまた良寛の短歌と小学校2年生の子どもの詩を比べ、子どもが子どもの見たままを子どもの言葉で表した詩の面白みを評価していることを挙げ、「大人と子供の上下関係」をあえて覆そうとするような面があったという。最後にラフカディオ・ハーンと白秋の子どもの詩に対する考え方が比較的に考察されているのも興味深く、筆者・田中泉さんの白秋の子どもの短歌に対する考え方に迫ろうとする熱意を感じた。
毎号楽しみに読んでいるのが「COCOON歌合」。今回の判者はわれらが「南の魚座」水曜日の書き手・有川ちづりん。2試合あるのだが長くなるので題「浮」の試合を紹介する。
◦汁に浮くヤサイ、ニンニク、アブラましまし豚は大〈小二郎〉食らう 早川晃央
◦地上から5センチ浮いて会ひに行くふやんとぬるき空気を踏んで 斎藤美衣
(判者評)
斎藤作品 今日は丹田の位置がいつもより5センチ高い。気分の高揚はおのずから体に現われ空気の弾力さえ変える。ふやんと足の裏から押し出される空気の質感が愉快。「浮」の題が生きている。
早川作品 次郎系ラーメン店の経験者であればよく分かる具材構成であり 盛り付けである。だが、小でも300グラムあるという麺に積み上げられた野菜や豚塊を「浮く」と表現するのはそぐわないだろう。
結論 よって斎藤作品の勝ち
このとおり歌が面白く、判定も明快で楽しいのだ。ちづりんのラーメンの知識の深さにも驚かされた。
まだチラ見ほどにしか目を通していないが、他にも島本ちひろさんのエッセイなど面白そうな頁がたくさんある。もちろん短歌作品も丁寧に詠みたい。締切りをすべて提出してから、ゆっくり読ませて頂くことにする 。楽しみだ。
いそがしき師走の午後に届きたるCOCOONを見やる雲のとほさに
cocoonラインにも淳子さんが、晶子さんのこの記事を共有してくださいました。Cz.