2019年 06月 19日
樅の木 有川知津子
ぶらさがっていたら、ラフマニノフが聞こえてきた。
どうやら、隣の隣でぶらさがっている人のスマホから流れ出ているようだ。何かのはずみで、耳に掛けている小さな受信機が受け取りを拒否したのだろう。ラフマニノフをこぼしている人は気づかないようで、すいすいと懸垂をつづける。
この人は、こんな曲を聴きながら懸垂していたのか。この人、と書いたが、知っているのは、懸垂か倒立をする姿かたちだけである。
ここには、鉄棒を使いたい人が集まってくる。腹筋や腕立て伏せをしたい人もくる。それ専用かどうかわからないが、腹筋や腕立て伏せにいいかんじの傾斜した台や低い鉄の棒が並んでいる。それぞれにやってきて、それぞれのことをこなしたら、それぞれに帰っていく。
気がつくと、小さな男の子が私をじっと見上げている。こんな夜に出歩いちゃいかんだろう、と思っていると、木の陰から、だめよ、と声がして、母親らしい人がほのぼのと現われた。
なんなんだ、ここは。
ラフマニノフの人は、音が外に流れているのに気づいたようだ。慣れた手つきで耳元を触ったと思ったら、聞こえなくなった。ちょっとざんねん。
あそこに月がかかるまで、と思ったところまで、月が昇った。この夜は満月だった。
樅の木よおまへはどこへ帰るのか冬ひとときを塵芥のなか
そして、いつも素敵なショートショートをありがとう。私もちづりんの不思議な世界に迷い込んでまーす。E.
懸垂、がんばれ! S.