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中村敬子歌集『幸ひ人』~源氏物語はもう読んだ   藤野早苗

先々週、今年の筑紫歌壇賞受賞作品が、中村敬子さんの『幸ひ人』に決定したことをお知らせしました。923日に行われる贈賞式には、みなさま、ぜひご参加くださいませ。



 今日は受賞作『幸ひ人』のご紹介を少々。本作については「コスモス」201812月号批評特集の中に「歳月と青空」と題して、朝比奈美子さんが、また、20192月発行の「灯船」第12号には「逡巡の軌跡として」と題して、魚座チーム土曜日担当のユリユリこと栗山由利さんが、それぞれ的確な批評を書いている。二人の批評を読んでいただければ、正直もう私が書くことは何もないのだが、この素晴らしい一冊を読ませていただいた感想を、少しだけ書いておきたいと思う。


 ・ないものをさがす寂しさゆらゆらとグラジオラスの螺旋階段

 巻頭の一首。巻頭作品はその一冊に通底するテーマを暗示する。螺旋状に咲き上るグラジオラスの花の揺れに「ないものをさが」している自らの「寂しさ」を見出す作者。以下、穏やかな韻律に内包された悲しみが、照り翳りしつつ詠まれている。


 ・ゆふぐれは白い兎が胸にゐてさささ、そそそと干し草をかむ

 ・垣こえて子らと子犬が球根をほじくり返した冬があつたよ

 ・一本の水平線を描くたびにとちゆうで折れる僕のシャーペン

 ・新雪に足おろすごと新しい手帳にしるすわたしの名前

 一見ささやかな暮らしの一場面を掬っているようだが、ここには言語化されない孤独、悲しみの余韻がある。こういう作品の背後には、作者をこのような気持ちにさせた「事実」があるはずなのだが、その具体が詠まれることはない。全編を通じて、柔らかな印象の歌集であるが、それ以上に、自らの境涯に読者を巻き込むことをせず、あくまでも作品として屹立させていこうという作者の意志が潔い。


 ・噴水の照り翳りつつ 考へる(いかなる幸ひ人の)くだりを

 本歌集にはタイトル『幸ひ人』 の由来となった作品が二首ある。前半に登場するのがこちら。『源氏物語』「浮舟」を典拠にした一首。


  いかなる幸ひ人の、さすがに心細くてゐたまへるならむ……

 「どんなお幸せな方が、と(周囲はさまざまに申しましょうがその御方ご自身は、薫大将の思い人というだけのお立場では)さぞかし心細くていらっしゃることでしょう……」


 光源氏亡き後の物語「宇治十帖」で繰り広げられる、薫、匂宮、大君、中君、そして浮舟の恋のさや当て。複雑なその経緯の中で、ことに意志を持たず、ただただ運命に翻弄されるのが浮舟である。上記の引用部分に登場する「幸ひ人」は浮舟を指しているのだが、薫の囲われ者として生きることが果たして幸いなのか、作者はそこで立ち止まったのだ。

 幸せとは何か。とくに女性の場合、その答えは難しい。浮舟のように、自らの意志をもたず、受動的に運命を受け入れて大いなる庇護の下生きていくのが幸せという、源氏の昔の価値観から、私たちはどれほど遠くに来ることができただろうか。


 ・あたたかく砂糖のとけた牛乳にとてもかなはぬ一日だつた

 ・保冷剤生ぬるくなればやはらかし今一度子を孕みたくなる

 ・復刻版LPレコード売る店のオーナーになる、いつかなりたし

 ・逆上がり出来るだらうか鉄棒の錆のにほひを握りしめつつ

 時系列に沿った編集とは限らないが、「幸ひ人」の歌以降、作者は能動的に人生の歩を進める。


 ・歳月のとある季節は色鉛筆ぶちまけたやうであつたよ 家族

 簡単ではなかった過去のある時期。それをかくもあざやかな比喩によって読者に差し出す作者。折り合いがついたのだろう。作者は確実に未来に向かって歩き続けている。


 ・「もうかえれ」ほつりと母が呟くはをんなが厨に立つ時刻なり

 ・空き家とは空へ貸す家ほつこりと雲が二階でくつろいでゐる

 ・〈母〉の字を〈妣〉に書きかへてひらがなの〈はは〉とちいさくルビをふり

たり

 その後も、東日本大震災による故郷の被災、母上のご逝去、と実生活上の悲苦が作者を襲う。


 ・意味のなきことには零の意味がある蟬しぐれ聞く君の声聞く

 しかし作者は揺るがない。人生に意味のないことはない、それをもう知っているから。


 ・本を閉ぢ草木うるほふ雨後の町へ犬をつれだす幸ひ人われ


 巻末近くに置かれた二つ目の「幸ひ人」。ここで閉じられた本は多分、「浮舟」。作者は長い長い読書ののち、自身の幸せを確信する。雨後の町へ踏み出す一歩。それは作者、中村敬子さんの歌人としての輝かしい一歩でもある。

 中村さん、第16回筑紫歌壇賞ご受賞、おめでとうございます。



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   邂逅はヒガンバナ咲く長月の太宰府 幸ひ人をひた待つ


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贈賞式のご案内。
ぜひご参加ください。





Commented by minaminouozafk at 2019-06-18 19:17
「浮舟」をベースに、作者の人生の物語が立ち上がるような読みを、ありがとうございます。
ユリユリの批評も併せて、敬子さんはますます福岡に来るのが楽しみになったことでしょう。
しかし、プティ・フールとはいえ、まさか早苗さん一人で食べちゃったわけでは無いですよね。E.
Commented by minaminouozafk at 2019-06-19 19:49
「幸い人」は私が初めて歌集評を書かせていただいた、その記念すべき歌集です。2月の批評会でお会いできましたが、わたしの拙い評を大きなお気持ちで受け止めていただきました。今回の受賞をわがことのように嬉しく思っております。九月にまたお会い出きることを心待ちにしています。Y.
Commented by minaminouozafk at 2019-06-20 05:54
ご紹介お待ちしていました。早苗さんの視点に従って読むとまたいろいろな発見があって感激です。読み落としていた作品の魅力にも気がつきました。素敵な歌集。ご受賞心からお喜びしています~。Cs
Commented by minaminouozafk at 2019-06-20 06:09
ご紹介、ありがとうございます。
未見の一書。早苗さんのご紹介文の掲出の歌を、ゆっくり拝読いたしました。『幸ひ人』像が立ち上がってきます。Cz.
Commented by minaminouozafk at 2019-06-20 10:43
ご紹介ありがとうございます。人生に意味のないことはないです。本当に比喩もすばらしいです。もう一度、『幸ひ人』開いてみます。N.
Commented by minaminouozafk at 2019-06-20 21:49
早苗さんの「浮舟」を透した読みに目を開かされました。漫然と読んだときと一冊の印象が変わります。9月に中村さんとお会いするのが楽しみです。A
Commented by 中村敬子 at 2019-06-21 08:40 x
藤野さん、拙歌集をこんなに深くお読みいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございました。
私も九月が楽しみで楽しみで。
皆さんにお目にかかれるのを心待ちにしています。

ケーキ、美味しそうですね。。。タベタシ
Commented by sacfa2018 at 2019-06-21 22:45
敬子さん、コメありがとうございます😊。
ご受賞、本当におめでとうございます。太宰府でお目にかかれるのを楽しみにしています。

敬子さんにケーキ食べさせたし。笑笑。

英子さん、もちろんひとりで食べたわけではありませんよ。S.
by minaminouozafk | 2019-06-18 10:03 | 歌誌・歌集紹介 | Comments(8)