2019年 04月 08日
亀井勝一郎との邂逅 百留ななみ
5月から元号が令和になる。本棚をかたづけていると昭和の本が多い。
亀井勝一郎の人生論もそのなかの一冊。高校生のころ「大和古寺風物誌」や「愛の無常について」をはじめ青春論や幸福論など手当たり次第に読んでいた。たぶん私の生き方に多少の影響はあったと思う。当時はテレビもリビングにひとつ、スマホもない時代。家の本棚にある日本文学全集、世界文学全集はもちろん父の書斎からも面白そうなものは拝読していた。読み終えるまで明け方近くまでかかっても大丈夫だった体力と視力が羨ましい。
<邂逅の歓喜あるところに人生の幸福がある>
亀井勝一郎の言葉で10代の頃から今でも座右の銘である。邂逅~思いがけなく出会うこと~は亀井の本ではじめて知ったことばだった。亀井勝一郎に夢中だった私に父の知り合いで新聞記者をしていた人からいくつか亀井の本をいただいた記憶がある。そのなかの一冊だと思う。まだ青年だった読書家の彼の本にはたくさんの書き込みがある。

懐かしくなって読み返してみる。
そういえば数年前に函館の五島軒で食事をした時、その建物は亀井勝一郎の弟の設計だった。亀井は函館の人だ。その近くに <人生 邂逅し 開眼し 瞑目す> と刻まれた亀井勝一郎の石碑があった。やはり、彼にとって邂逅はたいせつな言葉のようだ。このたび読み返した亀井の本の初版は昭和39年。私が生まれた年、55年前である。にもかかわらず古くさくなく55歳のこころに共鳴する。

<たえず刺激を求めると、だんだん強い刺激にしか反応しなくなり、感動や悩みが薄くなる。本来、感動や悩みがあるとそれを表現しようと思ってもなかなかできずに沈黙してしまう。そして、しどろもどろになって、ああでもないこうでもないと推敲したあと表現欲望が起き、表現してみる。しかしまた至らなさに気づき再び推敲をする。それを繰り返すのが思考。しかし、刺激が強すぎたら感動は擦り減り情報の受け売りになる。そして沈黙の状態が消失してすぐに饒舌になる。そして推敲もなくレッテルを貼ったり割り切って即断をする。だから自分が言ったことをすぐに忘れてしまう。これは精神の衰弱現象。受け身の形で、すべてわかったつもりで、次から次へ急いで生活していく。現代文化のいちばん大きな危険は、思考の省略、あるいは思考の中止の傾向にあると思う。>
55年も前のものなのに、まさしく今の思考の省略を言い得ていると思う。パソコンやスマホで加速度的に刺激も情報量も増えている。追い立てられている精神は立ち止まることも許されない。たぶん沈黙も推敲もしていないから自分が言ったことを忘れるのだろう。言ってしまったあとの謝罪も多い。
ゆっくりじっくり考えて良いんだよ。しどろもどろだっていい。口ごもってなかなか上手に思いを伝えられない私にはちょっとエールのようでもある。

一昨年の晩秋、斑鳩の里の中宮寺の弥勒菩薩を拝顔したとき、薬師寺から唐招提寺への路地をぬけるときに思い浮かべた「大和古寺風物誌」。あらあら本棚の奥に積み重ねた文庫本のなかから発見。もちろん昭和のものだ。ぱらぱらめくってみる。尼寺である中宮寺の平凡だがこころ惹かれる微笑の庭、そのなかの思惟像。ゆっくり読み直そう。
年譜を見ると亀井勝一郎は宮柊二より5歳上だが、ほぼ同じ時代を生きている。亀井勝一郎は1966年に59歳で亡くなっている。美学にあこがれたころもあった。絵を描きたかったころもあった。40歳での短歌との邂逅。 まだまだ開眼まではいたっていない。短歌をはじめていろいろ素敵な方との邂逅。偶然のような必然を感じるものもあり、とてもたいせつなものだと思う。

あのひとのペン書きの詩いただきし亀井勝一郎の背表紙のうら
村岡花子のことばに共鳴~。
55年前の言葉、深いです。その頃からもっと重症化した現代、省みて深く反省。E.
引用の部分、何度も読みました。うなりつつ~Cz。
今の10代、20代、哲学書を読まなくなっているみたいですね。残念なことです。ネットが人間の時間を掠めとっているのかもしれませんね。時間があまるというのは実は大切なことなのでしょう。S.
<邂逅の歓喜のあるところに人生の幸福がある>良い言葉です、村岡花子の言葉にも心を惹かれました。自分で言ったことを時々忘れてしまいますが、思考の省略か中止かと反省し乍ら読みました。A、

