2018年 10月 10日
「美術品ラシキ妻」 有川知津子
鷗外は、小倉第十二師団軍医部長として、明治32年6月から35年3月までの2年9か月ほどを小倉で過ごしました。この転出人事については、左遷であったとか、否、当時の制度内にあってはそんなこともありうるのだとか、いろいろに言われています。
鷗外本人はというと、「左遷」と受け取りいったんは辞職まで考えたようです。が、周囲の人々に説得され赴任します。そういう経緯もあり、この小倉時代は沈潜時代、雌伏時代と呼ばれます。
鷗外の小倉時代の業績として、クラウゼヴィッツの『戦争論』の講義、『即興詩人』の翻訳の完成、小倉三部作などがよく挙げられるようです。けれども今日は、もう一つの〈業績〉、再婚のことを書いてみましょう。
再婚相手は、荒木志げ。18歳年下でした。次に引く書簡は、この二度目の結婚のときに親友の賀古鶴所に宛てたものです。
万事存外都合宜シク御安心被下度候
(いい年をして美術品のような妻を迎え、大いに心配していましたが、
うまくやっています。ご安心ください)
あの鷗外が大まじめにほっとしている様子がうかがわれ、なんだか可笑しくなります。鷗外贔屓がいっそう募ります。
明治23年に前妻登志子と離別し、明治35年に再婚するまで、鷗外は13年間を独身でした。登志子さんは、鷗外小倉時代の明治33年に亡くなります。年譜だけを追っていると、登志子さんが存命のかぎりは再婚しなかった、とも受け取れます。
志げ夫人と鷗外、二人の小倉時代は3か月にも満たないものでしたが、志げ夫人は、小倉の新婚時代がいちばん楽しかったと話していたそうです。
馬小屋のありしところは晒されて秋をいちりんつめ草咲けり
鴎外は子煩悩で、出張先からも多くの手紙をやり取りしていますが、志げさんは大事にされなかったのかな?
続きも待ってます!E.
茉莉さんは、志げさんとのお子さんのようですね。とてもかわいがっていたみたいですね。Cz.