2018年 09月 30日
糸瓜の束子 大西晶子
先月からの家の壁の塗装工事でおおよそは取り払った糸瓜の一部が庭に残っていた。塗装工事が始まった後、数個のナーベラーを収穫しおいしく食べたので、それで糸瓜はおしまいだと思っていたのだが、更に一つを葉陰で発見。
気が付いたときには長さ30センチ近くになりナーベラーとして食用にはできない。しかたがないので放置して、数日前に束子を作ろうと収穫した。また、収穫したあとの茎の先を瓶に差しこみ糸瓜の水が採れるかどうかも実験してみた。
とれた水は3日間で30ミリリットルと少ない。きれいな水状なので使いみちは只今考慮中。
糸瓜の実は1時間ほど茹でてみた。冷やしたあとで鍋から出すと、それだけでほろほろと皮がくずれ、種を中に容れたままの繊維だけになり、いわゆる糸瓜の束子になってしまった。種は繊維を押したり引っ張ったりで、落とすことができた。更に塩素系漂白剤に漬けて置いたら、きれいな生成り色の束子が完成。
繊維だけになった糸瓜をみながら考えた。
年齢を経てすでに法的には老人の私なのに、物事の本質を見るということが全然できていないと思うことがしばしばだ。歌会で批評をした後で、肝心なことを外していたと思ったことも多い。「もっと深く丁寧に物事を見る」、いつも慌てて、つじつま合わせで暮らしているような日々の自戒として、忘れないようにしなくては。
皮、果肉すてたる今は繊維のみ白く乾ける糸瓜の束子
糸瓜の水は子規の辞世の句を思い出します。晶子さんも十五夜の夜に取ったのかな。E.