2018年 09月 25日
小島ゆかり歌集『六六魚』 藤野早苗
小島ゆかりさんの第14歌集『六六魚』を読んだ。
ついこの間『馬上』について書いたような気がするが、あれから二年。ゆかりさんの執筆ペースを考えると、ちょうどいいタイミングなのだろう。
『六六魚』は「りくりくぎょ」と読む。鯉の異名らしい。体側に36枚の鱗が一列に並んでいるからというのが由来という。
この歌集、面白いのはもう言うまでもないし、様々な角度から鑑賞できる一冊なのだが、私が一番心惹かれたのは、変容してゆく家族の姿を見つめるゆかりさんの眼差しであった。現歌壇の中心的役割を担いながら、ゆかりさんが大事にしているのは日々の暮らしの手触りである。ジェンダーに厳しい昨今、こういう発言は憚られるが、ゆかりさんは女性として受けた生を謳歌し、全うしている。幸せなことばかりではない。いや、悲しみの嵩は常人よりずっと多いかもしれない。でもゆかりさんはそれを女性ならではのしなやかさとしたたかさで越えてゆく。そしてそのたびに歌は肥え、雑駁に豊かになってゆくのだ。
・病む母を時間の谷に置くごとくいくつもの秋の旅を行くなり
・世の中によくあることがわが家にも起きて驚く鳩の家族は
・あぢさゐはぎつしりみつしり咲(ひら)くゆゑ母たちの愛のやうで怖ろし
・人は死に血は混じり合ひ 雨あとのあざみのやうに家族鮮(あたら)し
・海のをんなは海の呼吸で山のをんなは山の呼吸で子を生むならん
・母といふこのうへもなきさびしさはどこにでも咲くおほばこの花
・四世代容(い)れれば入(はひ)る破れさうで破れない古い巾着わたし
・赤子泣くそこは世界の中心でそこは世界の片隅である
・まだ棄てぬ臍の緒ふたつ ゆふかぜに枯蟷螂はあゆみはじめぬ
・ゆく夏の母のわたしは油蟬、祖母のわたしは蜩(ひぐらし)ならん
・亀しづみ蜻蛉とび去り秋天下われがもつとも難題である
・新年にわらわら集ふもののうちわたしはだれを生んだのだらう
・母となり祖母となりあそぶ春の日の結んで開いてもうすぐひぐれ
20年前、私は「小島ゆかり論」を書いた。それはとても稚拙な一篇であったと自覚しているが、その中で、小島ゆかりという歌人は少女から聖母になったような人だと書いた記憶がある。そんな人がこの先、歌人としてどのように変容してゆくのか、当時とても興味があったのだが、この『六六魚』には二十年前のその問いの答えがあるような気がしている。
急流に逆らい、くきくきと身を捩り泳ぐ鯉。水流に鍛えられたその身はみっちりと締り、輝く鱗に覆われている。これは華甲を過ぎたゆかりさんのイメージ。豊饒で強い。そしてこの鯉はさらに高みを目指す。六六魚の行方を見逃してはならない。物語はまだまだ続くのだ。
わうごんの鱗かがやく六六魚登竜門を登らむとして
家族の変化のなかに慈しむ心と自己を見詰める眼差しにさらなる深まりが感じられますね。ワクワクしながら一気に詠みました。本当に今後の変容に目が離せないって気持ちです。E.
みなさま、どうぞお越し下さい。S.