二十(はたち)の前の~鉄幹のうた  鈴木千登世

出張で徳山に来た。20代の終わりに数年住んでいた町。

つい最近までいたような気がするのに、引っ越してもう30年。海辺にコンビナートが並び煙突から煙の立ち上る景色は変わらないけれど、よく行ってたお店は、建物はそのままで別の名前になっていた。

街路樹の樟の並木、あの頃は木の名前も確かめようとはしなかった。

目の前のことに夢中だった20代。


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徳山港から見たコンビナート



徳山は与謝野鉄幹が住んだ町。

明治22年(1889年)だから、今から130年くらい前のこと。

徳応寺という寺がある。17歳の鉄幹はそこの養子となった兄が開いた私立白漣女学校(後の私立徳山女学校)に教師(漢文)として招かれたという。それから20歳まで過ごした徳山時代に、妻となる2人の女性(浅田信子と林滝野)と知り合い、また文学に目を開いていったという。後に「人生に対し文学に対する自分の新しい世界が少しづつ開けて来た」(「沙上の言葉」)と書き記された日々。



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彼のあたり二十(はたち)の前の我を知る蛇島(さしま)  仙島  黒髪の島    与謝野鉄幹



瀬戸内海を見下ろす太華山の山頂の碑に刻まれている歌。

昭和9年(1934年)、62歳の時に徳山鉄板会社(現日新製鋼)の社歌の作詞のために鉄幹は徳山を訪れる。その折りに作られた「徳山にて」という20首の中の1首という。

なだらかな韻律と「二十の前の我を知る」にこもる若き日々への感慨にしみじみとする。翌10年に鉄幹が亡くなったことを知るとなおさら思いに囚われる。

写真は徳山港から見た仙島と黒髪島(手前が仙島奥が黒髪島)。船に乗るために訪れた鉄幹は何度となくこの風景を見たことだろう。


瀬戸内の潮追風(しほおひかぜ)にしばたきつつ与謝野寛が見た海の青


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Commented by minaminouozafk at 2018-02-08 19:09
与謝野晶子の事は知ってても鉄幹の足跡は知らなかった。
白秋もそうでしたが、殿方って、思い出の地に最後に錦を飾りたくなるのかな。E.
Commented by minaminouozafk at 2018-02-08 22:57
鉄幹が徳山と所縁があるとは聞いていましたが、詳しい経緯は知らないままでした。ご紹介ありがとうございます。また一つ、賢く?なりました。S.
Commented by minaminouozafk at 2018-02-09 09:56
ありがとうございます。徳山高校出身の私、とっても嬉しいです。高校生の頃は鉄幹の事は話題にもならずスルーしてましたが、今はちょっと感慨深いです。黒髪島から通学してきている人もいました。 N.
Commented by minaminouozafk at 2018-02-09 17:40
まさに二十歳で東京に出たわたしには「二十の前の我を知る…」はとても響いてきます。二十歳前は大事な時間だったと今更ながらに思います。Y.
Commented by minaminouozafk at 2018-02-09 21:05
鉄幹の足跡知っていただいて嬉しいです。ななみさんの縁の地でしたか。バイパスから海沿いに広がる工場群を見ると徳山にいた頃がしきりに思い出されました。未熟で馬鹿なことばかりやってましたがただ懐かしくて。大事な時間だったんですね。「二十の前の我を知る」の歌に胸が詰まってしまいました。Cs
Commented by minaminouozafk at 2018-02-09 22:09
晶子のことはよく聞きますが、若い日の鉄幹のことはあまり聞いたことがありません。徳山で過ごした時期があると知ると九州人としては近くに居た人だったのか、とあらためて親しみを覚えました。ご紹介ありがとうございます。A
Commented by minaminouozafk at 2018-02-09 23:32
コメントの、「「二十の前の我を知る」の歌に胸が詰まってしまいました」というところを読んだら、胸が詰まってしまいました。
晶子の「その子二十」の歌が思い出されますね。Cz.
by minaminouozafk | 2018-02-08 05:55 | Comments(7)