2023年 03月 19日
海老チリ、海老チリソース、海老のチリソース煮 大西晶子
先週の日曜日は月一度のコスモス福岡支部の歌会だった。コロナ禍もそろそろ終わりが近いと思う人が多いのか福岡市の天神界隈は人出が多かった。
その日私の出した詠草は〈あがなひし海老チリソース旨けれど口に残れり殻二、三片〉だった。締め切りぎりぎりになって思いついた推敲のできてない歌で、仮借のない意見が出ることを予想していた。ところが予想外のところで議論が起きた。
「〈海老チリソース〉は一体何を指すのだ?」という点なのだ。私が「海老チリソース」と書いたのは買ってきた総菜パックのラベルにそう書いてあったからだが、「海老チリソース」では海老の入っていないソースのようで意味が分からないという意見が出た。たしかに味の素のCookDoに「干焼蝦仁(カンシャオシャーレン)用」という海老の入っていない調味料のみの商品がある。海老チリソースをそういう物だと読めば確かに「なんで殻が?」ということになる。
その場でネット検索した参加者が同じ料理を、海老チリ、海老チリソース、海老のチリソース煮と呼ぶようだと調べて下さったので、この議論は片付き私は「紛らわしいので、元々の中国名で干焼蝦仁と表記することにします」と発言した。
帰宅して自分でも気になり調べてみた。確かに「海老のチリソース煮」と言えば間違いが無さそうだが、料理のレシピのサイトで調べると同じような料理の表記に〈海老チリ〉〈海老チリソース〉〈海老のチリソース煮〉のどれもがある。
驚いたのは中国での表記で、先に書い た〈干焼蝦仁(カンシャオシャーレン)〉は殻を外した海老の炒め煮、殻をつけたままのものは〈干焼明蝦(カンシャオミンシア)〉だそうだ。
しかもこの料理は日本でできた料理で、中国料理には日本風の〈海老チリ〉は無いという記事も出てきた。昭和33年に日本で中華料理店を開いた陳建民さんが四川料理の〈干焼蝦仁〉をもとに創ったのが発祥で、日本人には辛すぎるので豆板醤を減らし、試行錯誤の末に今の〈海老のチリソース煮〉を作り上げたというのだ。
私の手元に四十数年使い込んだシミだらけのNHKの料理本『中国風きょうの料理』がある。奥付きには「昭和44年第一刷発行、唱和47年第十七刷発行」とあり、よく売れた本だということが分かる。著者は読み方がよく分からないのだが王馬煕純さんという女性。その中にも〈車海老の殻付きいため煮〉があり、脇に〈干焼明蝦(カンシャオミンシア)〉と書いてある。私もそれに従って何度か作ったことがあるが、そのレシピには当時はまだ簡単に手に入らなかった豆板醤は使われず、唐辛子と醤油、砂糖、酒、ケチャップで味がつけられている。
母国中国の料理の味を日本の主婦たちが手軽に作れるように調味料を変えて伝えようとした著者や、日本人の好む味を作ろうと試行錯誤を重ねた陳建民さんの御苦労を思うと、デパ地下やスーパーの総菜売り場で当たり前のように売っている海老のチリソース煮だが、心して食べねばと思う。
四川料理干焼蝦仁が日本の〈海老チリ〉になり舌よろこばす
2023年 03月 18日
手近になったAI 栗山由利
日本の大学の問題点は
日本の大学における問題点は、以下のようなものが挙げられます。
国際的な競争力の低下:
非正規雇用の問題:日本の大学においては、
研究資金の不足:日本の大学においては、
学部教育の充実不足:
パワーハラスメントやセクシュアルハラスメントなどの問題:
以上が、日本の大学における一般的な問題点です。ただし、
冒頭からなにやら堅苦しい内容で申し訳ありません。今日のテーマは「日本の大学の問題点」などではなく、その問いに答えた相手のことである。回答をしたのはコンピューターで、最近よく耳にするAIつまり人工知能である。
私たち60代のものにとっては人工知能というと、『鉄腕アトム』これしかなかった。正義感がつよく優しい心をもちながら、苦悩し葛藤するロボット〈アトム〉は白黒画面ではあったが、当時の子どもたちに遥か遠い未来の夢を見させてくれた。
このところ、遥か遠いと思っていた人工知能がすこし身近になってきているようだ。囲碁や将棋の世界もしかり、短歌界でも「AI短歌」というものを目にする機会も増えた。
引用したものは米のOpenAIが2022年に公開したChatGPTで、これはだれでも無料で利用でき、こちらの質問に答えて自然な言葉で文章を生成できることで注目されている。
新しいものの導入に関しては賛否両論があって当然だし、そのメリットデメリットも十分には検証されてはいないだろうが、それを踏まえたうえで使ってみるのも良いのではないかと思っている。因みに「戦争をなくすには」という問いへの答えは以下のようなものだった。
戦争をなくすには
戦争をなくすためには、以下のようなアプローチが考えられます。
国際社会の協力:
対話と和解:紛争当事者が対話を通じて和解することが必要です。
経済発展:貧困や不平等が紛争の原因となることがあるため、
平和主義の教育:平和を尊重する文化を育むために、
兵器廃絶:兵器を廃絶することが必要です。特に、
以上のようなアプローチが考えられますが、
キロだつた世界がメガ、ギガ、テラとなり小石ひとつのおもさ手におく
2023年 03月 17日
藤島秀憲著『山崎方代の百首』 大野英子
ふらんす堂の歌人入門シリーズの⑥です。以前、高野公彦氏が「北原白秋の百首」を書かれています。その時の小題は〈言葉でありながら音楽であること〉でした。今回は〈「自分」を求めて〉です。方代の作歌態度の核心を突いていますね。
この一冊を手にした時、藤島氏ほど方代のユーモアと屈折について語るにふさわしい人はいないだろうという、期待感が湧いてきました。
藤島氏の解説には
短歌を始めて二十三年になる。長いといえば長く短いといえば短い年月に、山崎方代は常に私の隣に居てくれた。「歌集を手元に置いていた」でもなく、「読み続けて来た」でもなく、「隣に居てくれた」という表現が一番合う。
と書かれています。方代を愛読されている方は多いでしょう。私もその一人です。百貨店勤務の激務の中、〈方代をスタバで読めばやはらぎぬ持ち帰りたくない今の鋭ごころ〉といううたを詠んだように、方代の作品には凝り固まったこころを、ふっと柔らかくしてくれるものがあるのです。
そんな方代の、不思議な魅力を藤島氏は方代の生涯に照らし合わせながら、方代のエッセイ集『青じその花』での方代の言葉も引用して丁寧に解き明かしてくださっています。
それは、方代のうたや人生に対する姿勢であり、また藤島氏の短歌観であり、実作においてのヒントを多く提示してくださっています。一部抜粋します。
全てを言わない。百あるところを七十くらいで歌いとどめて、あとは読者に想像してもらう。読者は残り三十をあれこれ想像して楽しむ。
ユーモアに両足をいれることはなく、必ず片足は切なさや怒りに踏み込んでいる。アンビバレントと言おうものなら「そういう難しいことじゃなくて、人間ってもともと複雑だからね」と方代に言われそう。
方代の歌の素材はそう多くない。身の回りにあるもの〈その最たるものは自分自身なのだが〉が素材の中心。一つものを何度も繰り返し歌う。ゴッホがひまわりを何枚も描いたように。草野心平が蛙を生涯のテーマとしたように。
他にも方代の省略技術や場面構成の斬新さ、余白の効果、リフレインの多用、そして死生観まで、その魅力を時に笑わせてくれながら、しんみりとさせながら、余すことなく引き出してくださっています。
それを、ここでつらつらと書くのは野暮なことだと思います。
解説には作品を添えながら方代の生涯を丁寧に書かれています。ぜひ、お手に取ってじっくり味わっていただきたいと思いました。
最後に印象深い1ページを記します。
寂しくてひとり笑えば卓袱台の上の茶碗が笑い出したり 『こおろぎ』
「方代の歌の素材はそう多くない」と以前に書いた。
同じように方代の語彙もそう多くない。この歌でいえば「寂しく」「ひとり」「笑え、笑い」「卓袱台」「茶碗」が終生何度も使われた言葉。
マンネリと呼ぶ人もいるだろうが、そもそも一人の人間が借り物でなく自分のものとして体得している言葉なんてたかが知れている。
完全に消化しきった自分の言葉で表現することの大切さを方代は身をもって示したと思う。借りて来た言葉や着飾った言葉を方代は一切使わなかった。
藤島氏にしか語れない、方代短歌へのナビゲーションに導かれ、期待感が確信となって詠み終えました。何度でも読み返して方代短歌の境地の奥深さと藤島さんの方代愛に触れていたいと思った一冊です。
あをぞらに辛夷のはなが咲きました誰かに手紙を書きたい春です
2023年 03月 16日
赤れんがと桃色れんが 鈴木千登世
東京にさくらの開花宣言が出された14日。こちらでは寒の戻りの冷たい一日となったものの雲ひとつない青空が広がった。調べもののために図書館を訪れたついでに、青空に誘われて早春の一の坂川を散策した。
一の坂川を少し下るとクリエイティブスペース赤れんがという建物がある。山口県立図書館の2番目の書庫として大正8年に建設されたもので、一度は取り壊しが決まったものの保存運動がおこり、平成2年にふるさと創生事業で改修が行われ文化交流施設として生まれ変わったもの。去年の11月に開館30周年を迎えた。
通称「赤れんが」。大正8年というと1918年。百年以上の歴史のあるレンガ造りの建物は暖かみがあって懐かしい。
屋内はコンサートや展示会、演劇やシンポジウムなどさまざまな催しが行われている。月末のさくらまつりでも拠点のひとつとしてにぎわう予定だ。
赤レンガよりのも薄い肌色に近い桃色。生まれた町のあちこちにはこの色のレンガ塀があった。
ウォーキングの道より少し外れたところによく似たレンガ塀を見つけた。似ているけれど比べてみるとずいぶん整っている。それでも傍を通る度に、生家では父が池を掘って鯉を泳がせていたこと、春の初めには沈丁花が咲いて良い香りにつつまれること、家の前がお豆腐屋さんだったので大豆の煮えた甘い匂いや油の匂いがいつも漂っていたこと等々を思い出して懐かしくなる。
風が耳を甘嚙むやうに吹きぬけぬ殿町通りの赤レンガ塀
まだ生家があった頃にこんな歌を作った。赤レンガとしているが実はこのれんがは「桃色れんが」と呼ばれる宇部周辺の地区ならではのレンガだと後に知った。宇部周辺は炭鉱の町として栄えていた。その石炭を採取する際のボタや焼却灰という余り物からのリサイクルの産物が「桃色れんが」だった。大正期から作られ始め、閉山が相次いだ昭和40年代には衰退していったという。
「桃色れんがのこみち」と名付けられた路地が宇部市内にはあって、炭鉱のまちの名残をとどめるものとしてそれを保存する動きがあるものの、ずいぶん昔に作られた塀なので壊れたりして数が減りつつあるそうだ。なんとか残す手立てはないものだろうか。
からだから子どもの吾が抜け出でてれんがの道で手招きをする
ゆりの木と桃色れんが、野の匂ひ 記憶の春にそそぐ陽光
2023年 03月 15日
「卓上作法」第4号(終刊号) 有川知津子
今日3月15日(奥付)、「卓上作法」第4号が刊行された。終刊号である。編集人は、岩下祥子さん。「卓上作法」はテーブルマナーと読む。
「卓上作法」は、詩の雑誌。高専(工業高等専門学校)の学生が、放課後に岩下祥子先生の研究室に集まり、詩の話をしたことがはじまりであった。そのはじめから、「卓上作法」は全4冊の雑誌として企画されていた。
このブログでも、創刊号、第2号、第3号を刊行のたびにご紹介してきた。
終刊号を手にすることが、とてもうれしい。終刊号なのにうれしい、というのも奇妙な感じだけれど、目標達成だからやはりうれしい。第3号について書いてから、季節がうつり、目前にはあたらしい4月が控えている。
「卓上作法」の同人は、すでに社会人として日々の仕事に向き合い、もう、岩下先生の研究室にあつまって詩の話をすることはない。岩下先生の眺める風景も大きく変わり、新しい命を迎えている。
本誌には、
赤子はきゅーと鳴いたあと
安堵の顔でわたしの胸に頭をあずけた
ぽろりと
子の瞳ほどの涙粒が
でてかなしい
と、こんな4行をもつ「プティフール ―petit four」(企画「卓上作法的カタカナ語辞典」より)という詩がある。「きゅー」とは、なんと確かで、それでいて儚い発声だろうか。
今年は卯年。新年には、既刊の岩下祥子詩集『うさぎ飼い』を読み返していた。
豪の詩「メイド・イン・007」のなかほどに、こんなフレーズがある。
冷たくなる金属は
きれてしまっても
元通りにできると思う
「冷たくなる金属は」のもう一方に思われている何かがあるだろうと想像させられる。――冷たくなくて元通りにできない何か。
芽惟の詩「帰ったら、これしか覚えていない」の冒頭の5行はこんな展開をする。
このままずっと眠いのかなと思っていたら、今日からはそんなことないみたいです
どこにでも動線があって、玄関から直線に並んでいて欲しい
どんどん狭くなっていって、SNSをチェックする場所はどんぐりずわりじゃないといられない
ショッキングピンクを認識し、灯りの近くで瞬き後、おおすごい補色のミドリが影になる
おおすごくなかった、ピンクの表紙の太宰の横に緑のポプラポケット文庫があるだけだった
「動線」に引き込まれ読みすすめた先の、「おおすごい」から「おおすごくなかった」の呼応の自在さが楽しかった。「太宰」じゃないといけなかった。
乙部響のエッセイ「甘い」は、「ここまで読んでくれた人には随分とむず痒い思いをさせたに違いない。」などと突然、語り手が読者にかたりかける手法を採り入れながら、恋の「告白」の顚末が綴られていく。
小野友久の小説「理想の人間」は、天才博士が「理想の人間を作り出すマシン」を完成させ、そのマシンに、顔の輪郭の特徴や身長などの諸条件を入力し、理想の人類を生み出していこうとする話である。
仲村航の巻末エッセイ「鹿威し」は、断簡の集積のような見かけをしている。抒情的なものから箴言ふうのものまであるという幅のひろさで、27編が収められている。
後部座席でウィンドウを下げて、前髪を揺らして夕方に座っている。地球はオレンジ色をしていて、私もそれに混ざっている。 (第3編)
あの人もこの人も、すごい人、すごい人、すごい人、でも、人。
日常のひらめきを、素速く書き留める。そんな生活者の横顔を思い浮かべながら読んだ。
岩下先生は、尾形亀之助の研究者である。この号にも「詩人という商い」というタイトルで研究エッセイを寄せている。尾形の詩業について考察した見開き2ページの小論は、学術論文一本の重量感である。
今は社会人となったかつての学生の詩文を読みながら、3年か4年前の授業を思い出した。
電気電子のクラスで、星新一の「ボッコちゃん」を教材にした日、ボッコちゃんのようなロボットを作るのは不可能だと一人の学生が言ったのをきっかけに、数人の学生がテキストの描写からいくつかを指摘した。その部分の制御の技術がまだないというのだった。
この授業は、ここからお茶のないティーパーティーのようになり、試験範囲まですすめなかった。愉快な時間だった。
学科や学年の違う彼らの詩心が岩下先生を中心にあつまり「卓上作法」は開かれ、次の歩みをはじめるために閉じられた。「この春に「卓上作法」を出し終えたことをうれしく、少しさびしくも思います」(編集部)とは、謹呈紙に綴られた文言である。
見送ればボールだつたといふ顔をしなくなつたね身長伸びて