2016年 09月 12日
百留ななみ
青毬の見しもの
近くの幼稚園の裏庭に小さな栗の木を見つけた。桃、栗三年と言うが、今年はじめてだろうか。
梢に青毬を2つ付けている。それは、栗の木ロボットの目玉のようで愛らしい。
人間はあちこち移動する。それを旅というのか。今は飛行機でだれでも地球の裏側までもオリンピック観戦に行ける。宇宙までもロケットで。同じ生き物でありながら、植物は移動しない、いや動けない。動かない植物の視点はどっしりして揺るぎがないように思う。たぶん青毬も小さい時からずっと初夏の空、猛暑の空をながめている。屋根なんかないから満天の夏の星も三日月も知っている。もしかしてミサイルも。
以前、栗の産地で2年ほど暮らしたことがある。3月は葉をきっぱりと落とし裸木となった栗の木の芽生え。黄緑色の小さな芽がきらきらしている。独特の匂いの花の咲く6月。梅雨の語源は栗花落(ついり)と言う。その後、雌花は小さな緑の金平糖のような実となる。ほんとうに可愛い。それが、徐々に大きくなって青毬に。内側から満ち満ちてきたら、重さに耐え切れずその実を落とす。そして、秋風が木枯らしに変わるころにはすっぱり葉を落とし再び裸木となる。
ドラマチックで凛々しい栗の木。冬の明るい栗の林は気持ちが良い。雨の頃の枝垂れた白花。いがいがの中の艶々のずっしり重い実。縄文時代から食べられ、万葉集にも歌われている。
ぼちぼち八百屋さんの店先にも栗が並び始めた。渋皮煮、栗ごはん、モンブランも大好きだが、あの厚い皮を剥くことを思うとついつい買うのをためらってしまう。沢山いただいた時は頑張ってナイフで剥くのだが、渋皮を傷付けずに剥くのは、気力と手力が要る。だから、なんとか栗ごはんにはなるが、渋皮煮はなかなか難しい。
この秋、ゆったりとした気持ちで渋皮煮をと思うのだが・・・
栗の木の梢の二つの青毬が見てゐる核の弾頭ミサイル
百留ななみ
そのうち、反乱を起こすかも。E.